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沖縄、台湾をつむぐ

琉球王に仕えた名家・川平家。琉球処分から日本統治下の台湾、戦後の沖縄へ。激動の時代をたどり、沖縄と台湾を見つめます。

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沖縄、台湾をつむぐ

琉球と静岡の縁 没した使節の墓を詣で 浜松では今も続く交流

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西見寺に飾られている版画「琉球人行列附属」。先頭を馬に乗って進むのが西見寺に埋葬された高嶺里之子親雲上魏国香=浜松市西区西鴨江町で2020年8月31日、鈴木玲子撮影
西見寺に飾られている版画「琉球人行列附属」。先頭を馬に乗って進むのが西見寺に埋葬された高嶺里之子親雲上魏国香=浜松市西区西鴨江町で2020年8月31日、鈴木玲子撮影

 江戸時代の1609年、薩摩藩に武力侵攻された琉球国の尚寧(しょう・ねい)王は翌年、江戸に連行された。薩摩藩主・島津家久に伴われ、駿府で徳川家康、江戸で二代将軍・秀忠にそれぞれ謁見した。これ以降、徳川将軍や琉球国王が代替わりしたとき、江戸に琉球使節が送られるようになった。

 使節は「江戸上り」「江戸立(だち)」とも呼ばれた。ただ、近年の研究では、「江戸上り」は、徳川幕府に対する従属的な意味を含んでおり、琉球国内では「江戸上り」という用語は見当たらず、琉球での公式用語では「江戸立」だったと指摘されている。

 1634年から1850年まで計18回。将軍の襲職を祝うときは「慶賀使」、琉球国王の代替わりは「謝恩使」という。川平朝清(かびら・ちょうせい)さん(93)の祖父・朝彬(ちょうひん)さんが参加した1850年の使節は、琉球の尚泰(しょう・たい)王即位に伴う「謝恩使」だった。

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