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社史に人あり

象印マホービン/9 社名を「協和製作所」に変更=広岩近広

大阪市南区の高津工場で組み立てられる魔法瓶=象印マホービン提供

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 象印マホービンの創業者、市川銀三郎は戦後の事業再開を、新築の高津工場(大阪市南区)でスタートさせた。このとき、何かと頼りにされていた長男重幸は、工場の管理を弟の隆義に任せたい、と父親に提案する。隆義は大阪工業専門学校(現大阪府立大)の金属工業科を出ており、重幸は弟を選任したかった。銀三郎は「それでええやろ」と承諾して、こう継いだ。

 「これからは、おまえたち若い者の時代や、思うようにしたらええ」

 銀三郎は、すぐに社名の衣替えを決めた。実態は親子の会社ながら、二世の兄弟による「協力」が主になってきたからである。1948(昭和23)年12月、「市川兄弟商会」の社名は「協和製作所」に代わった。「協和」には兄弟たちが力を合わせていこう、という強い願いと意志がこめられていた。

 若い兄弟に思う存分にやらせたいとの気持ちは、かつての自分を振り返るとなおさらだった。象印マホービンの創業となる「市川兄弟商会」の看板を掲げたとき、銀三郎は20歳で、弟の金三郎が17歳だった。

「協和製作所」に社名を変えた当時の社屋=象印マホービン提供

 第三者の目にも「協和製作所」の中心は、銀三郎から重幸へと移っていた。家庭用の「ポットペリカン」は人気が高まり、重幸は営業を担って外回りに余念がなかった。隆義は製品づくりの工場に通い、細心の目配りを続けた。時折、工場に顔を見せる銀三郎は、細かいことに口を出していない。

 当初は魔法瓶のケース(外装)だけでなく、蛍光灯の側面用カバーや台十能(炭火を持ち運べるように台をつけて運ぶ道具)などをプレスして製作した。1949年に魔法瓶の輸出が一般にも認められるようになってから、プレス作業は魔法瓶のケース加工のみに戻している。

 東京に出て真空管事業を成功させていた金三郎の息子が、手伝いに来阪してくれたのも心強かった。というのも、当時の魔法瓶の製造と納品は、初歩的な人海戦術に頼っていた。社史から引きたい。

 <組立は組立工が床にすわりこんで手作業で組み立てる。部品も一束ずつ束ねてあるのを、組立工が自分で運んでくる。(略)完成された魔法瓶を、一本一本紙に包んで一個箱に入れ、六本、一〇本と束ねて縄でくくって三〇本ほどを一つの木箱に入れる。多いときはこの木箱を三つも積んで、問屋へ自転車で運ぶ。木箱一つは横一メートル、高さ三〇センチほどだから、三つ重ねると高さも一メートル近い。重さは九〇本では九〇キロにもなる。これを五〇キロぐらいの体重の男が自転車で運ぶのだから、なかなかうまくいかない>

 配達先の問屋へ向かう途中で自転車を倒すと、大事な商品が割れるので、納品までは命懸けだった。

 <やっとこさ問屋の前までたどりつくと、それっとばかり店の人が出てきて自転車を押さえ、「ご苦労さん」といって荷物を降ろしてくれる。店主がいるときは自ら出てきて声をかけてくれる。役目を終わってほっと胸をなでおろす一瞬である。当時、魔法瓶はまだまだ貴重品扱いで、金物店でもいちばん奥まった店主の席の背の棚に並べてあった>(社史)

 協和製作所の従業員は1951年の約10人から、4年後には30人をこえた。市川親子が真摯(しんし)に取り組んだ、その成果を示す数字であった。

 (敬称略。構成と引用は象印マホービンの社史による。次回は10月24日に掲載予定)

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