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日本文化をハザマで考える

第28回 東京大学はその文学における伝統にもっと誇りを持つべきだ

東京帝国大学時代の(左から)久米正雄、松岡譲、芥川龍之介、成瀬誠一

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 東京の雑司ケ谷霊園には、ジョン・ローレンス博士の墓がある。世話をするのは東京大学だ。彼は1906年から1916年に亡くなるまで、この大学で英文学を教えていた。

雑司ケ谷墓地にある、ジョン・ローレンス博士の墓=ローレンス・ウィリウムズ氏提供

 今日ではあまり知られていないかもしれないが、博士は日本文学史において、興味深い役割を担った人なのである。

 夏目漱石(1867~1916年)は1903年初頭、あの有名なラフカディオ・ハーン(1850~1904年)の後を継いで、東京大学で英文学を教えることになった。

 漱石は外国人教師、アーサー・ロイド、そして早熟の文学者であり詩人の上田敏とともに東京大学で教えていた。上田敏は八雲の愛弟子で、八雲が辞めさせられたことへの怒りを鎮めるために雇われた。

 最初は猜疑(さいぎ)の目で見られた漱石であったが、間もなく東京大学では彼の信奉者ができてきた。しかしながら、漱石はすぐに自身の創作の方に情熱を注ぎ始めた。東京帝国大学を辞めたかったが、政府の金で2年間もロンドンに遊学した手前、単に辞職するのはさすがに気が引けた。しかし、誰か著名な外国人の教授が後を継いでくれるならば……。

 この時点で、大学はローレンス博士の雇用を決め、彼は1906年9月に東京に到着した。彼は55歳で、日本語は少しも話せなかった。ローレンスはパリ、ベルリン、プラハなどさまざまなところで研究生活を送ってきた。そしてその彼が、近代日本の偉大なる知性である漱石から、教職を引き継いだのであった。漱石は1907年の2月に正式に退職した。

 しかし、実のところローレンスは文学批評がからっきしだめだった。実際、何の批評もしなかった。彼は保守的で、文学作品について教えるということは、言語学的、歴史的詳細に自分を埋没させることにあると信じていたのだ。

 漱石の1908年の作品「三四郎」では、九州の学生である三四郎が東京大学に英文学を勉強しに来るのであるが、三四郎が「Answer」と言う言葉のアングロサクソン語の語源を学ぶ授業の場面で、漱石が描写している「先生」というのはローレンスのことだ。ローレンスの専門は、Gothic(使われなくなったゲルマン言語)とアイスランド語であった。

 天才的短編小説作家の芥川龍之介や、劇作家の久米正雄はともにその後、漱石の愛弟子となるが、ローレンスのいた英文学部の卒業生でもあった。

 ハーンや、漱石、それに上田敏がいた頃の東京帝国大学の英文学部の教員のレベルは、世界的に見ても二つとないほどのものであっただろう。ローレンスにとっては、そのような天才たちから教職を引き継ぐことは、毒の入った聖杯を飲むようなものであったと思われる。

 私としては、東京大学はその英文学における伝統に、もっと誇りを持つべきと思えてならない。時々は、東京帝国大学での英文学部の歴史と、それがいかに近代日本文学を変革したかということを祝うとともに探求するシンポジウムを開催してみるのもいいのではないだろうか。

@DamianFlanagan

ダミアン・フラナガン

ダミアン・フラナガン(Damian Flanagan) 1969年英国生まれ。作家・評論家。ケンブリッジ大在学中の89~90年、東京と京都に留学。93~99年に神戸大で研究活動。日本文学の修士課程、博士課程を経て、2000年に博士号取得。現在、兵庫県西宮市とマンチェスターに住まいを持って著作活動している。著書に「世界文学のスーパースター夏目漱石」。

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