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村上春樹をめぐるメモらんだむ

英文の美しさを知る「耳の良さ」 村上さんとフィッツジェラルド、ヘミングウェー=完全版

ジョン・グリシャム著、村上春樹訳「『グレート・ギャツビー』を追え」中央公論新社

 村上春樹さんが翻訳したジョン・グリシャム著「『グレート・ギャツビー』を追え」(中央公論新社)を読んだ。また翻訳の話か、と思われるかもしれない。このコラムでは既に何回か翻訳を話題にしてきた。しかし、なにしろ村上さんが次々と翻訳書の新刊を出すのだから仕方がない。

 この人の翻訳の仕事量はすさまじい。いつかきちんとデータを取ってみたいと思うが、2018年からの3年だけでも10冊近くに及び、これが特にハイペースというわけでもない。毎年フルマラソンを走るという長距離ランナーよろしく、デビュー以来の40年余、着実に、しかもけっこうバラエティーに富んだ本を訳してきている。

たまたま目にしたのがきっかけで翻訳

 で、今回は現代の米ベストセラー作家、グリシャム氏(1955年生まれ)のミステリーである。と、分かったように書いているが、もっぱら現代日本文学おたく的な(それもごく狭い範囲の)読書しかしていない筆者には未知の作家で、弁護士の経験を生かした法廷ものなどで知られるらしい。だが、「訳者あとがき」を先に読むと、「『グレート・ギャツビー』を追え」は弁護士がほとんど出てこない、グリシャム作品としては珍しい小説のようだ。

 村上さん自身、3年前に出た原著を読んだのはポーランド旅行中の書店で「たまたま」目にしたのがきっかけだったという。それも本の裏表紙の内容要約に、「フィッツジェラルドの生原稿がプリンストン大学の地下金庫から盗まれた」といった「強く興味を引かれる」記述があったために「買い求め、すぐに読み始めた」。米作家、スコット・フィッツジェラルド(1896~1940年)の作品を、村上さんが若い頃からいかに愛好してきたかは、これも当コラムで繰り返し言及してきた。

 あとがきに「僕は、一九八三年にプリンストン大学のファイアストーン図書館を訪れて、スコット・フィッツジェラルドの生原稿を見せてもらったことがある」ともある。まさにその図書館が盗難の舞台となる本書に、訳者が「読みふけることになった」のも当然だろう。

「グレート・ギャツビー」と重なる小説の構造

 そんなわけで、日ごろ翻訳もののミステリーを読みつけない筆者も、「いったん読み出したら止まらなくなった」という村上さんの熱にあおられるようにして読み始めた。なるほど、冒頭いきなり生原稿の強奪計画と実行場面がテンポ良く描かれる。その後、主要な登場人物である男女2人の事件との絡みが、それぞれの境遇とともに巧みに示されていく。

 中でも、やはり訳者が「本書の魅力のひとつ」として的確に指摘しているように、「全米でも有数の独立系書店のオーナー」である男性が「同時に希覯(きこう)本の蒐集(しゅうしゅう)家(専門は現代アメリカ文学)でもある」という設定は、アメリカ文学やミステリーに必ずしも関心を持たない「本好き」にも興味を抱かせる点だ。希覯本とは、初版本や限定本などでめったに世に流布しない本のこと。知的で精力的な書店主の謎を秘めたキャラクターが、探偵役の「スランプに悩む新進女性作家」の視点によって少しずつ明らかにされる。

 興味深いのは、村上さんがこうした小説の構造に、フィッツジェラルドの代表作「グレート・ギャツビー」(25年)と共通するものを見ていることだ。2006年に村上さんが新訳を出して話題となった「グレート・ギャツビー」では、確かに謎めいた大富豪のジェイ・ギャツビーの実像が、若い友人、ニック・キャラウェイの視点で描き出される。ちなみに、グリシャム作品で奪われるのはフィッツジェラルドの長編小説全5作であり、もちろん「グレート・ギャツビー」が含まれている。というか、捜査に当たる米連邦捜査局(FBI)内部で、この事件が「ギャツビー・ファイル」と呼ばれるほど象徴的な作品であり、したがって訳題もこのようになったわけだ。言うまでもなく、全てはフィクションだが。

 かくして、筆者も読むうちにぐいぐいと引き込まれ、最後まで読まされてしまった。小説の面白さはいくつも挙げられるが、ネタばれになるので控えておこう。内容とは別にもう一つ、あとがきで訳者は、自分が「希覯本みたいなものにはあまり興味が持てない」とする一方、「ジャズ・レコードのコレクションをしている」ことに触れ、「希覯本蒐集家たちの気持ちも決してわからないではない」と記している点が関心を引いた。

 というのは、7月の本紙インタビューで、村上さんが次のように語るのを耳にしていたからだ。「本は1回読んだらね、だいたい古本屋に売ったり、処分しちゃうんだけど、レコードは持っていますね。普通、作家は逆だと思うんだけど、僕の場合、本にはそんなに執着ないんですよ。初版とかそういうのも全然興味ないし。ただ、レコードはもうオリジナルのファーストエディションを中心に探しています。どっちかというとコレクターに…

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大井浩一

1987年入社。東京学芸部編集委員。1996年から東京と大阪の学芸部で主に文芸・論壇を担当。村上春樹さんの取材は97年から続けている。著書に「批評の熱度 体験的吉本隆明論」(勁草書房)、共編書に「2100年へのパラダイム・シフト」(作品社)などがある。

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