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東条碩夫「マエストロたちのあの日、あの時」

クラシック音楽業界の表裏に詳しい音楽評論家・東条碩夫さんが、世界的な指揮者やソリストたちの意外な素顔を紹介します。

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東条碩夫「マエストロたちのあの日、あの時」

ロシアが生んだ気鋭の演出家、ディミトリ・チェルニャコフ

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2009年のボリショイ・オペラ来日公演「エフゲニー・オネーギン」第2幕より、テーブル・パーティーで言い争うオネーギンとレンスキー (C)高嶋ちぐさ 写真提供:ジャパン・アーツ
2009年のボリショイ・オペラ来日公演「エフゲニー・オネーギン」第2幕より、テーブル・パーティーで言い争うオネーギンとレンスキー (C)高嶋ちぐさ 写真提供:ジャパン・アーツ

 猛烈なブーイングに、舞台に出てきた若い演出家のディミトリ・チェルニャコフは顔をこわばらせ、たじたじと一、二歩後ずさりした。2005年12月11日、ベルリン州立歌劇場での「ボリス・ゴドゥノフ」(ムソルグスキー)上演のカーテンコールでの光景である。彼はこれがベルリン・デビューだったようだ。だがその時、当日指揮を執った、この劇場の音楽監督でもあるダニエル・バレンボイムが現われ——。

 話はさかのぼるが、私がチェルニャコフの演出を初めて観(み)たのは、2004年5月30日、サンクトペテルブルクの「白夜祭」(白夜の星・国際音楽祭)における、グリンカの生誕200年を記念する「皇帝にささげし命」上演の時だった。ポーランド軍の侵入から皇帝を救ったスサーニンを主人公とするこのオペラを、彼の美談としてではなく、戦火により一家が分断される悲劇として演出、舞台前方にスサーニンの留守宅を、奥に戦場の森の場面を置き、両者でのドラマを並行して展開させるという、穏健ながらも面白い手法を採っていたのだった。ゲルギエフが「あの若手は注目株だよ」と言っていたのも当然であったろう。

 が、そういうチェルニャコフも、西欧の歌劇場に出ればやはり過激なことをやりたくなるらしい。前述の「ボリス」も、物語はロシアでなく現代の荒廃した都市での出来事で、ボリスは皇帝でなくストレスに悩む市長という設定。大詰めでホームレスが「みんな泣け、長い夜が来るぞ」と歌うと、本当に全市が停電になる……という具合だった。読み替え自体はいいとしても、何しろその舞台、えらく騒々しくて、音楽さえ聞こえなくなるくらいの物音も混じるような演出だったのである。私でさえ、ブーイングに加わりたかったほどだ。

 だが、そのブーイングのさなかに出てきた総帥バレンボイムは、たじろいでいるチェルニャコフの左手を取ると、「この男を起用したのはおれだ。おれはこの男を支持する」と言わんばかりに、その手を高々と差し上げて見せ、自らも客席をにらみ据えたのである。このバレンボイムの毅然(きぜん)たる態度にけおされたごとく、客席のブーイングはやみ、音楽監督の強い信念をたたえるブラヴォーの声さえ起こった。バレンボイムもいいとこあるな、と私は感動した。

 その後、チェルニャコフは、「順調に」活動の幅を拡げていった。2009年6月のボリショイ劇場が日本で上演したチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」をご覧になった方も多かろう。あれは面白かった。泥酔したレンスキーの怒りや「辞世の詩」を一同が冗談だと思い、「いまどき決闘でもあるまい」と笑い飛ばしているうちに、いつのまにかそれが現実の悲劇となり、オネーギンが押しとどめたレンスキーの銃が暴発して——という読み替え演出は、なかなかに説得力のあるものだった。

 2010年7月にエクサン・プロヴァンス音楽祭で上演されたモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」におけるチェルニャコフの演出は、さらに凝ったものである。ストーリーを騎士長一家の内紛として描き、すべての事件のうしろで糸を引いている深謀遠慮の黒幕が、実はあの「さえない男」と見られているドン・オッターヴィオだった、という設定。これを綿密に描いた彼の演出はかなりの賛否両論を呼んだが、私は結構楽しんだクチである。

 2014年3月にMETで上演されたボロディンの「イーゴリ公」も、4月にライブビューイングで上映されたので、目にした方も少なくなかろう。「ポロヴェッツ人の踊り」を含む異国の場面は、戦場で傷を負い昏倒(こんとう)したイーゴリ公の一場の夢に過ぎず、帰国した彼を待っていたのは勝手に出陣した彼への糾弾の礫(つぶて)……という読み替え。イーゴリに対する歴史的な分析の視点も取り入れた解釈が、面白かった。

 その他、ベルリンでの「トリスタンとイゾルデ」や「パルジファル」、エクサン・プロヴァンスでの「カルメン」など、私は現場では観ていないけれども、大きな話題を呼んだ舞台がたくさんある。いい演出家だ。

筆者プロフィル

 東条 碩夫(とうじょう・ひろお) 早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(音楽之友社刊)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。

ブログ「東条碩夫のコンサート日記 http://concertdiary.blog118.fc2.com」公開中。

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