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常夏通信

その69 戦没者遺骨の戦後史(15) 硫黄島生還者の自責 死んだ戦友の食糧で命をつないだ日々

夕日に染まる摺鉢山。1945年2月19日に米軍が上陸、日本軍守備隊と激しい戦闘が続いた=東京都小笠原村の硫黄島で2020年10月24日午後4時52分(代表撮影)

 「捕虜になることは不名誉なことなんです。自分だけが生き延びて……」

 第二次世界大戦の激戦地、硫黄島(東京都小笠原村)から生還した元海軍航空隊整備兵の三田春次さん(88歳=当時)は、私のインタビューにそう話した。2010年の夏である。「家族まで持っている。死んだ人たちに申し訳ない」とも。

 私は、何も言えなかった。

 「申し訳ないことはないですよ。三田さんだって戦死していたかもしれない。自分の意思でどうこうできるものでもなかったでしょう。責められるべきは、そんな戦争を始めた人たちですよ」と言えば良かったと、今は思う。

飛行機も軍艦もない海軍

 群馬県出身の三田さんは徴兵され、1944年6月に渡島した。硫黄島には海軍の飛行場が三つあった。8000人近い海軍兵士がいたのは、このためだ。しかし日本軍の飛行機は、上陸前の米軍による攻撃などで失われていった。整備の仕事がなく、陸軍の兵士と協力して地下壕(ごう)を掘った。米軍の空襲や艦砲射撃はあったが、「何もない硫黄島に米軍が上陸するとは思っていなかった」。

 45年2月、米軍の攻撃は激化した。上陸は確実になった。見張りとして海を見ると「敵艦が二重三重に島を取り巻いていました。孤島で補給もない。もちろん玉砕を覚悟していました」。

 日本軍守備隊は約2万1000人。海軍は約8000人だった。海軍の主な業務は当然ながら艦船で戦うことだ。また「ゼロ戦」で知られるように航空機の運用も重要な役割だった。一方で、地上戦は専門ではない。「陸戦隊」もあったが、陸軍には装備や訓練の面で及ぶはずもなかった。三田さんは「地上戦の教育を受けたことはなかった」。

 友軍の飛行機がなく、軍艦もない状況では、唯一の兵力は地上部隊である。であればこそ海軍は陸軍の指揮下に完全に入り、その指導や訓練を十分に受けて米軍に立ち向かうことが望ましかった。しかしそれは実現しなかった。

栗林中将の不満

 さて日本軍守備隊を指揮した栗林忠道陸軍中将は、米軍が上陸する前から武器弾薬や食糧などの補給問題で強い不満を持っていた。

 大量の輸送は、もっぱら海軍の輸送船に頼っていた。守備隊の最高指揮官は栗林であり、海軍もその指揮下に入っていた。しかし、米軍の上陸を前提に持久戦を展開し、米軍の出血を増やす方針であった栗林に対して、海軍は上陸を許さない「水際撃滅作戦」にこだわり、海岸線にコンクリート製のトーチカなどを多数整備した。硫黄島を「不沈空母」、つまり沈まない航空母艦とするには、飛行場は死守しなければならなかったのだ。

 「水際撃滅作戦」を採用しなかった栗林にすれば、重要物資と人力を別のところに向けたかっただろう。飛行場があっても、それを利用する海軍機がなくなったから、なおさらである。しかし海軍に妥協せざるを得なかった。

 栗林の不満は他にもあった。…

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栗原俊雄

1967年生まれ、東京都板橋区出身。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院修士課程修了(日本政治史)。96年入社。2003年から学芸部。担当は論壇、日本近現代史。著書に「戦艦大和 生還者たちの証言から」「シベリア抑留 未完の悲劇」「勲章 知られざる素顔」(いずれも岩波新書)、「特攻 戦争と日本人」(中公新書)、「シベリア抑留 最後の帰還者」(角川新書)、「戦後補償裁判」(NHK新書)、「『昭和天皇実録』と戦争」(山川出版社)など。

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