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村上春樹をめぐるメモらんだむ

韓国人作家が受け取った「新鮮な何か」 言論弾圧に「声を上げなくては」と語った理由=完全版

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イム・キョンソン「村上春樹のせいで」
イム・キョンソン「村上春樹のせいで」

 イム・キョンソンさんという未知の作家が書いたエッセー「村上春樹のせいで」(渡辺奈緒子訳、季節社)を読んだ。作者は1972年生まれの韓国人。父親が外交官で「大学に入るまでに韓国と外国を全部で七回も行ったり来たりした」経歴を持ち、中でも幼児期から小学校の低学年までは日本で暮らしたため、彼女が「初めて覚えた言葉は日本語だった」という。

 原著のタイトルは「どこまでも個人的な」といった意味のようで、確かにそのままでは分かりにくい。ただ、訳題も普通だと、あまりいい目を見なかったというニュアンスに取られかねないが、実際は作者が異文化を横断する人生の転変の中で「村上春樹の文章に慰められ、支えられながら生きてきたという事実」を逆説的に示すものである。原著は5年前の刊行だが、もとになるエッセー(「春樹とノルウェイの森を歩く」、未邦訳)が2007年に出ていたらしい。「日本語版のための序文」では、村上さんを「最愛の作家」とさえ表現している。そういう意味では、サブタイトルの「どこまでも自分のスタイルで生きていくこと」のほうが原題を生かしつつ、内容に即したものになっている。

小説に自分と共通する「気分」や「感情」

 小学3年で韓国に戻った作者は、初めハングルの読み書きが全くできず、担任の教師は級長の男子の隣に座らせて、面倒を見させた。外国から来た転校生として注目を浴びているうちはよかったが、目新しさが失われると級長は彼女を「『チョッパリ』(日本人をさげすんでいう言葉)と呼んでいじめるようになった」。

 村上作品と出会ったのは、「いくつかの国を転々とした」後、日本で高校に通っていた87年。刊行されたばかりの『ノルウェイの森』だった。89年に韓国の大学に入るが、民主化運動が盛んだった当時、「韓国語もろくに使いこなせなかった大学初年兵の女子学生」は屈折した思いを抱く。やはり大学時代に激しい学生運動を経験した村上さんの小説に、自らが味わってきたものと共通する「気分」や「感情」を読み取っていく。

 「特に『ダンス・ダンス・ダンス』に出てくる暴力的な部分は、彼が全共闘時代の経験を通して得たものと失ったもの、そして考えたことを間接的に象徴している。作品の底に流れている深い喪失感と虚無感も、当時の暗鬱とした時代背景がもたらした人間関係の喪失によるものだったはずだ」

共感を得る初期作品の「喪失感」

 このあたりを読んでいて、筆者はこのコラムで前にも触れた06年の国際イベント「春樹をめぐる冒険――世界は村上文学をどう読むか」を思い出した。その中のワークショップで、韓国の日本文学研究者、金春美(キム・チュンミ)さんはこう語っていた。

 「日本に対する抵抗感が強いなか、春樹の作品は、日本文学という国籍を感じさせることなく、広く受け入れられました。その最大の理由は、春樹の、とくに初期作品に感じられる『喪失感』というものが韓国の『三八六世代』といわれる人々の強い共感を得ていることでしょう。三八六世代というのは一九六〇年代に生まれて、八〇年代に学生運動に参加した(90年代当時に30代だった)世代です。日本では韓国の学生運動は成功したと思われているかもしれませんが、彼らは実際には挫折感、あるいは成功した後の虚無感というものに襲われています」(引用は「世界は村上春樹をどう読むか」文春文庫)

 金さんは、おおよそイムさんの親の世代に当たる女性研究者である。「日本に対する抵抗感が強い」のは、いうまでもなく、日本による植民地支配という「過去の歴史がある」からだ。にもかかわらず、14年前のこの時点で「韓国には村上春樹のファンが何十万人もおり、ファンクラブだけでも何十もあります」という状況になっていた。89年に「ノルウェイの森」が韓国語訳されて以来、全ての村上作品が翻訳され、次々とベストセラーになった。小説だけでなく、「やがて哀(かな)しき外国語」「遠い太鼓」といったエッセー集も関心を集めた。

 韓国の民主化運動は87年、全斗煥・軍部政権の退陣を決定づけ、93年には金泳三による初の文民政権、98年に金大中政権が成立する。イムさんは「三八六世代」の少し下だが、同じ運動の後の喪失感や虚無感の中にいたといえる。「訳者あとがき」で渡辺さんは、「『三八六世代』が学生運動とその後の社会の急速な変容に喪失感を味わった村上春樹に…

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