うちに来る?「駅の子」育てたママの記録 びっしり245人、よみがえる戦争孤児

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1950年代前半に「愛児の家」の庭で子どもたちと遊び、笑みを浮かべる石綿貞代さん(中央)。「ママ」と慕われた=愛児の家提供
1950年代前半に「愛児の家」の庭で子どもたちと遊び、笑みを浮かべる石綿貞代さん(中央)。「ママ」と慕われた=愛児の家提供

 終戦から間もない東京で戦争孤児を引き取る活動を始めた女性がいた。上野駅に足を運び、地下道などに寝泊まりする「駅の子」と呼ばれた孤児に声をかけた。厳しい生活を送る子どもたちの母代わりとなり、いつしか「ママ」と慕われたという。一時期は100人以上が暮らした場所は児童養護施設となり、今も草創期の記録が残る。戦後75年の今年に一部が書籍化された資料をひもとき、関係者を訪ねた。【椋田佳代】

 始まりは1945年9月下旬、自宅に戦争孤児を引き取ったことだった。「母の友人が6、7歳の男の子を連れてきたのがきっかけです。行き先がなく困っていたそうで、分かるのは自分の名前だけ。年齢も分かりませんでした」。東京都中野区にある児童養護施設「愛児の家」で、三女の石綿裕(ひろ)さん(88)はそう振り返る。母親は孤児を育てる活動をした貞代さん(本名・さたよ、89年に92歳で死去)だ。

迎え入れた子どもたちと家族のように

 貞代さんは45年11月には愛児の家の前身となる「戦災孤児救護婦人同志会」を設立。「日本中が大変なのだからできることをやりましょう」と言い、当時13歳だった裕さんらを連れて上野駅に通った。

 上野駅の地下道は薄暗く、大人も子どもも地べたに座っていた。貞代さんは「うちに来る?」と声をかけ、望めば…

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