「母さんを殺しちゃった」泣き崩れた16歳の夏 岩佐幹三さんのあの日 紙芝居に

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岩佐幹三さんが家の下敷きになった母を置き去りにして逃げる場面
岩佐幹三さんが家の下敷きになった母を置き去りにして逃げる場面

 僕は原爆の火に焼かれる母さんを見殺しにして逃げた――。そんな罪の意識を胸に、戦争も核兵器もない世界を実現するために生涯をささげ、9月に91歳で亡くなった日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の顧問、岩佐幹三(みきそう)さんの体験を基にした紙芝居が完成した。30年前に小学生が岩佐さんの話を聞いて作った紙芝居の絵を、石川県内の被爆者や有志がよみがえらせ、内容はより分かりやすくアレンジした。「紙芝居を見た一人一人が平和のバトンをつないでほしい」。制作メンバーはそう願う。

 炎に包まれる家の前で、少年が立ちすくんでいる。母は倒れた家の下敷きになり、額から血を流していた。「母さん、なんとか動いて!」「肩を押さえている物があるから動けんのよ」。母にのしかかった柱をどかそうとしたが、びくともしない。「母さん、だめだ! もう火が近づいてくるよ!」「そんなら、はよう逃げんさい」。唇をかみしめて言った。「母さん、ごめん。僕もアメリカの軍艦に体当たりして、後からいくけえね」。母を置いて逃げた。後ろから母が般若心経を唱える声が聞こえていた。

 1945年8月6日。岩佐さんは広島の爆心地から1・2キロの自宅の庭にいて爆風で地面にたたきつけられた。その後、母を助けようとしたがうまくいかず、置き去りにした場面だ。

 当時16歳の中学生。敵の軍艦や戦車に体当たりし、死んで国に尽くせば家族を守れると信じる「軍国少年」だった。翌日、叔母の家にたどり着き「母さんを殺しちゃった」と泣き崩れた。数日後に掘り起こした母の遺体は、まるでマネキン人形にコールタールを塗って焼いたようだった。「母さんは人間としてではなく『モノ』として殺されたんだ」。勤労動員されていた12歳の妹の遺体は見つけることもできなかった。父はすでに病死しており、原爆孤児になった。

30年ぶりに子どもたちの絵に光

 88年、金沢大で教授を務め、仲間と結成した「石川県原爆被災者友の会」の会長として被爆者運動に奔走していた岩佐さんの半生を、金沢市立十一屋(じゅういちや)小の6年生が2日間にわたって聞き取り、48枚の紙芝居を作った。紙芝居は何度か子どもらの前で上演された後、担任の教員から受け取った研究者が東京都内の大学で保管していた。

 2019年秋、紙芝居に光が当た…

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