「沖縄人だって人間」甲子園出場監督が見たコザ騒動 民衆の怒り爆発から50年

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焼き打ちされた米国人の乗用車
焼き打ちされた米国人の乗用車

 「沖縄人だって人間じゃないのか」。極東最大と言われた米軍嘉手納基地のゲート前に開けた沖縄本島中部の街・コザ。沖縄が米国の統治下にあった1970年12月20日未明、米兵の車が起こした人身事故をきっかけに民衆が怒りを爆発させ、路上にあった米軍車両に次々と火を付けた。「コザ騒動」と呼ばれる。その現場には当時、コザ高校野球部の監督だった安里嗣則(あさとつぎのり)さん(80)もいた。選手たちを率いて甲子園にも出場した監督が見た50年前の緊迫の現場とは――。【遠藤孝康】

 安里さんはあの夜、職場の同僚との忘年会で2次会に繰り出そうとコザ(現沖縄市)の歓楽街近くに着いた。そこで起きていたのが米兵運転の車が道路を横断中の沖縄の男性をはねた事故だった。事故車や米兵を現場から移動させようとする琉球警察と米軍憲兵隊。そうはさせまいと囲む群衆。「事故がうやむやにされようとしている。みんなを呼んでくれ」。当時30歳だった安里さんが誰かが持ってきた木箱の上に立って叫ぶと、騒ぎを知った人々が次々と路上に出てきた。

 45年の沖縄戦後、米国の統治下に置かれた沖縄では、基地の外で米兵が事件や事故を起こしても沖縄側に裁判権がなかった。米軍の軍事裁判は無罪や極端に軽い刑の判決ばかり。コザ騒動の9日前も、糸満町(現糸満市)で51歳の女性が酒に酔った米兵運転の車にひかれて死亡した事件の軍事裁判があり、判決理由さえ示されず無罪が言い渡されていた。「事故を起こしても基地内に逃げ込んで無罪放免。みんな、憤りが積もりに積もっていました」

「これ以上進めば死者が出る」

 安里さん自身の人生も米軍と深い因縁があった。…

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