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男子6位入賞と健闘した九州学院(熊本)は3年の溝上稜斗(りょうと)主将、副主将の田島公太郎が、度重なるけがを乗り越えチームを引っ張ってきた。溝上は3度の疲労骨折に苦しみ、この日は無念の欠場。だが、2人とも「ここまでこられたのは支えてくれた仲間のおかげ」と感謝する。
4位だった2019年の都大路。アンカーの溝上は競技場に戻ってきた時、1位でフィニッシュする仙台育英の選手の姿を目に焼き付けた。「来年は絶対この差を埋める」。悲願の全国優勝を果たすため主将を志願した。
しかし、この1年はけがの連続だった。1月初旬、地元の駅伝大会に出場後、右足の甲を疲労骨折した。体重を掛けるとズキズキと痛み、2カ月間、松葉づえ生活を余儀なくされた。全体練習に参加できない間、体力や心肺機能を維持するため週に3、4回ジムに通い、バイクトレーニングに汗した。
4月にようやく完治したが、新型コロナウイルスの影響で高校が休校となってしまった。寮も閉鎖になり、学校が再開する6月まで熊本県水俣市の実家へ。1人で筋トレや走り込みを続けた。バイクトレーニングの効果もあり、調子は上がっていたが、休校明けの6月初旬、右の股関節に痛みを感じた。脚に力が入らず、歩くのもままならない。診断の結果は、また疲労骨折だった。「休校期間中の走り込みが原因だ」と感じた。
約2カ月間走ることができず、8月に練習に参加できるようになったが大幅に体力が落ちていた。「早く回復しないと」。夏休みの合宿で練習に必死に食らいついた。だが、やっと体力が戻り県予選に向けて手応えを感じていた10月、今度は左の股関節を疲労骨折した。約2週間後に迫っていた県予選のメンバーから外れた。
「9月以降、県大会で走ることだけを考えて毎日死に物狂いで練習に取り組んでいた。目標を見失い、何のために頑張るのか分からなくなった」
落ち込む溝上を勇気づけたのはチームメートの力強い言葉だった。「必ず全国大会につれて行く。走れるようにしっかり準備しとけ」。その言葉通り、九州学院は県予選で優勝し、都大路への切符をつかみ取った。しかし、本番まで残された時間は約1カ月半。完治させ、体力を戻すのは難しいと判断した禿(かむろ)雄進監督は、溝上の出場を見送った。
レース後、6位に終わり嗚咽(おえつ)するアンカーの2年生に溝上は笑顔で語りかけた。「俺がけがをして重責を担わせた。お前が責任を感じる必要はない」。最後の都大路を欠場した悔いはない。「この経験を生かし、大学で陸上を続けしっかり練習したい」と前を向いた。
◇
副主将の田島は「溝上を日本一のキャプテンにする」と胸に期して3区を力走した。
本格的に陸上を始めたのは高校から。父親は中学の音楽教師で母親もサックス奏者。自身も小中学生時代は学校の吹奏楽部に所属しトロンボーンを演奏していた。「私生活ではインドア派だし、球技は苦手」と話す一方、長距離だけは好きだった。中学の体育の授業では陸上部の選手と競うほどのスピードで走り、陸上競技部の助っ人として県の駅伝大会に出場していた。大会での走りを見た禿監督から声を掛けられ、九州学院への進学を決めた。
しかし、運動部の経験がなかったことから筋力や体力がなく、2年間はけがに悩まされた。1年の時はけがのため走れない日の方が多かった。「せっかくここまで来て、何をしてるんだろう」。落ち込んだ時もあったが、陸上を辞めたいと思ったことは一度もなかった。「同級生や先輩が楽しそうに走るのを見て、自分も同じように走りたいという気持ちの方が強かった」
他の選手と比べ、筋肉量が圧倒的に少ないことがけがの要因の一つだった。腰や肩まわりを集中的に鍛え、部活後は入念にストレッチをし体を休めることを意識した。2年の夏ごろから他選手と同様に練習や大会に参加できるようになった。レギュラーに定着し、2年で晴れて都大路の5区を担当した。新チームで副主将となり仲間たちをまとめ、けがで大会に出場できない主将の溝上を支えた。
最後の都大路は強豪の留学生選手らに抜かれ悔しさは残るが、力は出し切った。「この1年、溝上とやってこられたことは悔いがない。ありがとうと言いたい」【栗栖由喜】
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