2000年の大みそかに発覚し、いまだに犯人が見つかっていない「世田谷一家殺害事件」で妹一家を失った入江杏(いりえ・あん)さん(63)は事件後しばらく、「死んでしまいたいという気持ち」を抱えていたという。その後、遺族であることを公表して絵本を出版し、現在は上智大グリーフケア研究所の非常勤講師として教壇に立つなど、さまざまな活動を続けている。入江さんに悲しみとの向き合い方や、前に進めるようになったきっかけについて聞いた。【野村房代/統合デジタル取材センター】
――妹の宮沢泰子さん(当時41歳)とその夫みきおさん(同44歳)、めいのにいなさん(同8歳)、おいの礼ちゃん(同6歳)が殺害された事件は、20年たった今も未解決のままです。
◆私の体験固有のつらさと言えば、まずは未解決事件であることだと思います。未解決事件の遺族は、わからないことばかりです。20年間、はっきりしないもの、不安や恐怖と向き合い続けることを強いられるのは、つらく、大きな心の負担でした。悲しみは心の奥深くによどみ、前を向けなくなってしまうような思いに何度もとらわれました。
死生学では、悲しみからの回復を困難にする要因の一つに「あいまいな喪失」を挙げています。「あいまいな喪失」は、未解決の犯罪だけでなく、病名がわからない体調の不良や、ご遺体が見つからない自然災害などにも当てはまります。例えば、東日本大震災の津波で行方不明となったままの方々の家族が抱える「あいまいな喪失」と、私の感じるそれとは同じではないと思いますが、大切な妹一家の亡きがらを「自分の目で確かめられなかった」「きちんとお別れを言えなかった」という私の体験もまた、一つの「あいまいな喪失」ではないかと感じています。
さらに、捜査協力の中で、周囲の悪意を探るとも言うべき作業にも心を痛めました。ささいなことにも事件の芽があったかもしれないと、人を疑い、社会を疑う。そうした作業ほど、心の一番大切な部分を擦り減らすものはありません。人や社会への信頼が失われて、生きている意味を見失いかけました。
――妹さん一家を理不尽に奪われた上に、入江さんは当時、一家の隣家に住んでいました。想像を絶するつらさがあったと思います。
◆お互いを支え合うように建つ隣家に住んでいたのに、なぜ助けてあげられなかったのか、という自責の思いがあります。心理学用語で「サバイバーズ・ギルト」と呼ぶ、生き残った者が抱く「罪責感」です。隣り合わせに家を建てるほど、妹とは本当に仲が良くて、日々支え合って生きてきた。だからこそ余計につらくて、仲良くなければこんなに悲しまずに済んだのだろうかと、仲の良かったことを後悔したことさえありました。
その上、そのつらさを誰にも話すことができませんでした。事件の衝撃を一番受けたとも言える、第一発見者となってしまった母。その母から、事件との関わりを誰にも知られないようにしてほしいと懇願されたからです。母は犯罪の被害に遭ったことを恥だと考え、もし世間に知られたら、私の夫の仕事がなくなったり、息子がいじめられたりするんじゃないかと心配していました。私には、事件のまがまがしさではなく、妹たちの生き生きとしていた姿を周囲に記憶してもらいたいという思いがありました。それでも母の懸念を考えると、当時は悲しみを封じ込めざるを得なかった。今振り返ると、その6年間は蚕が繭を作るようにこもっていた時期だったと思います。
――2006年に「入江杏」というペンネームで、にいなさんと礼ちゃんが大切にしていたクマのぬいぐるみ「ミシュカ」を主人公にした絵本を出版されました。どのようなきっかけがあったのでしょうか。
◆七回忌に絵本「ずっとつながってるよ こぐまのミシュカのおはなし」(くもん出版)を出版し、ペンネームを得たことは、事件遺族であることを公にする機会にもなりました。それまでの私には、報道などで伝えられる4人の姿に、違和感がありました。私の知っている本来の4人の姿を伝えたいと思い、大切な人を失った悲しみは消えないけれど、心の中でその人たちは生き続ける、そんなストーリーの絵本を制作しました。「入江杏」は、「にいな」と「礼」をアルファベットにして、並べ替えたものです。
前を向けるようになったきっかけは、にいなちゃんが残してくれた一枚の絵でした。事件の約1カ月前に小学校の授業で描いたその絵は、…
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2002年入社。岡山支局、東京・生活報道部などを経て20年春から統合デジタル取材センター。ファッション、アート、カルチャーについて主に取材。また、障害や差別など光が当たりづらいマイノリティーの問題に関心がある。1児の母。共著に「SNS暴力 なぜ人は匿名の暴力をふるうのか」(毎日新聞出版、2020年9月発売)
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