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広島・長崎原爆

1945年8月、広島・長崎へ原爆が投下されました。体験者が高齢化するなか、継承が課題になっています。

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2020ヒバクシャ

坪井直さん 95歳「ピカドン先生」の終わらぬ闘い 人類の幸せ訴え続け

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被爆体験講話で、爆心地付近の地図を示す坪井直さん。国内外で「戦争はいかん、核兵器はいらん」と訴え続けてきた=広島市中区で2017年5月10日、山田尚弘撮影
被爆体験講話で、爆心地付近の地図を示す坪井直さん。国内外で「戦争はいかん、核兵器はいらん」と訴え続けてきた=広島市中区で2017年5月10日、山田尚弘撮影

 核兵器禁止条約が年明けに発効することが決まり、10月25日、原爆ドーム前で被爆者ら約200人が喜びを分かち合った。だが4年前、現職の米大統領で初めて広島を訪れたオバマ氏と笑顔で握手した被爆地ヒロシマの「顔」は、加わることができなかった。被爆75年の記録報道「2020ヒバクシャ」の10回目は、不屈の精神で被爆者運動の先頭に立ってきた坪井直さん(95)の人生をたどる。

 <記録報道「ヒバクシャ」のこれまでの連載>

 「不撓(ふとう)不屈 Never give up!」。広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)の理事長を16年前から務める坪井さんは今、信条を墨書した色紙を飾った広島市西区の自宅の部屋で一日を過ごす。

 元号が平成から令和に変わった昨年5月ごろから極端に足腰が弱り、車椅子を手放せなくなった。がんや心臓病、貧血などでこれまで2週間に1度、点滴を受けてきた。今年に入ってからは30回以上も輸血を受け、ベッドから起き上がることも容易ではなくなった。

 あの日、原爆に全身を焼かれ、40日あまり意識をなくした。左目の視力を失い、その後も3度危篤に陥った。生かされた恩を返すために教師になり、「ピカドン先生」と名乗って40年、生徒に体験を語り続けた。退職後は、国内だけでなく、核保有国の英仏中やインド、パキスタン、北朝鮮など21カ国を訪れ、「肌の色は違ってもいい。国境は要らない。助け合わんと人類の幸せはない」と、拳を振り上げながら「核なき世界」の実現を訴えてきた。

 「『ついに! 良かった』と大きな興奮を覚えている。長年の悲願である核兵器の禁止・廃絶を具体化する、大いなる一歩だ」。条約の発効確定を受けて発表した談話で、坪井さんは喜びをあらわにした。その一方で、核保有国や日本が批准していないことを踏まえ「これからも険しい道が続くのかもしれない」と覚悟した。

 坪井さんは記者に会うたびにこう繰り返してきた。「私は核兵器がゼロになるまで諦めはしません。ネバーギブアップ!」。闘いは終わらない。

原点は御幸橋での「命の選別」

 「最近は誰の顔を最後に見て死ぬんか、そんなことばかり考えておる」。3月末、坪井直さん(95)は電話で記者に弱音を吐いた。広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)のトップとして、毎年8月6日の首相との懇談会に出席し、核兵器禁止条約の批准を求めてきた。しかし、病気と高齢のため体が言うことをきかず、前年に初めて欠席した。「もう安倍(晋三)さんと会うことはかなわんのう」と寂しげにつぶやいた。

 放射能にむしばまれ、3度も危篤に陥りながら75年を生き抜いてきた坪井さんが、いつも持ち歩いていた写真がある。…

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【広島・長崎原爆】

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