「1日で49人の相手を…」 過酷な労働、波乱の人生赤裸々に 「からゆきさん」肉声テープ発見

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宮崎康平氏が「からゆきさん」をインタビューした際に録音したテープ。「からゆきさんの話(1)」と書いた紙が貼られている=内嶋善之助さん提供
宮崎康平氏が「からゆきさん」をインタビューした際に録音したテープ。「からゆきさんの話(1)」と書いた紙が貼られている=内嶋善之助さん提供

 「一日一晩のうちに、49(人と)したよ……」。16歳の少女は、船底で汚物にまみれて海を越え、見知らぬ異国で春を売った。幕末から明治、大正にかけ、貧しさから海外に渡り、娼婦(しょうふ)として働いた女性「からゆきさん」。その一人が約60年前、その過酷な体験を赤裸々に語った約12時間分の肉声がテープに残されていた。からゆきさんが自らについて語ったり書き残したりした史料はほとんど残っていない。この女性はシンガポールで裕福なイギリス人に身請けされ、たくさんの宝飾品を贈られて「ダイヤモンドおなご」と日本人の間で呼ばれた。30歳半ばでホテル経営に乗り出すほど成功したが、帰国後、だまされてほぼ無一文になるなど、波乱に富んだ生涯だった。しかし、海外に渡った女性の存在は地元でも秘されてきたという。なぜ女性は肉声を残したのか。古いテープを再生してみたい。【牧野宏美/統合デジタル取材センター】

12時間に及ぶインタビュー音声

 肉声テープが残されていたのは長崎県島原市出身で、シンガポールに渡った女性。記録では1888年に生まれ、1967年に死亡したとされる。

 録音テープが見つかったのは次のような経緯があった。島原出身の作家、宮崎康平氏(1917~80年)が61年、シンガポールから帰国していた女性と自宅で面会。録音しながら2回にわたりインタビューした。宮崎氏は「『からゆきさん』についての小説を書きたい」と知人に依頼し、この女性を紹介されたが、その後別の仕事で多忙になり、小説は未完のまま死去した。テープは宮崎氏の妻が保管していた。

 妻は2011年、元島原市職員で舞台の創作活動をしている知人の内嶋善之助さん(68)にテープを託し、内嶋さんが長期保管するためにデジタル音源化した。語られた内容はその後、「からゆきさん」の研究を続ける嶽本新奈(たけもと・にいな)明治学院大助手が分析している。

 テープは約12時間分。女性はインタビュー当時、73歳だった。シンガポールへ行くまでの経緯や、密航した船の中の様子、娼館での労働環境、娼館を出た後の生活などが島原の方言で詳細に語られている。

極度の貧しさから渡航 「船底は地獄」

 貧しかった。家族は父、母、妹2人、弟1人の6人。父は神経症のため働けず、女性は10代前半から奉公に出され、島原の揚屋(遊女を呼んで遊興する店)で下働きをしていた。16歳の時に母親が死亡すると、家計を支えるのは女性ただ一人に。揚屋の給料では到底足りない。そんな時、銭湯で見知らぬ高齢女性から「高い給金が出る。遠いところに行かないか」と誘われ、外国行きを決意する。

 女性をあっせんする女衒(ぜげん)と呼ばれる男性たちの手引きでシンガポールに密航したのは1904年。日露戦争開戦の年だ。島原の港から24人の若い女性たちと4人の男性と船に乗り込み、石炭などを置く船底部分に身を潜めた。暗闇で便所もなく、汚物は垂れ流し。航海は約1カ月続き、世話役の男性が女性たちに性的暴行を加えることもあったという。この女性は自分の体に汚物をつけることで暴行から逃れたといい、「船の底は地獄だった」と振り返る。

 シンガポールに着くと、日本人が経営する「女郎屋」へ連れて行かれた。マレー街と呼ばれる、日本人娼館が集まっていた通りだ。イギリスの植民地だったシンガポールでは、移民の増加に伴って1890年代にヨーロッパ、中国系などの娼館が急増。からゆきさんは1905年ごろまでに増えた。当時109の日本人娼館に633人の娼婦が働いていたとの記録がある。10年の「福岡日日新聞」では、現地を訪れた記者がマレー街のからゆきさんの様子をこう描写している。

 「家は洋館にして青く塗たる軒端に、一二三の羅馬(ローマ)字を現はしたる赤きガス燈を懸け、軒の下には椅子あり。異類異形の姿せる妙齢の吾(わ)が不幸なる姉妹、之(これ)に倚(よ)りて数百人とも知らず居並び、恥しげもなく往来する行路の人を観て、喃喃(なんなん)として談笑する様、あさましくも憐(あわ)れなり。衣類は目を驚かす色あざやかに派手なる浴衣をまとひ、ことごとく細帯のみにして、髪は高きヒサシに大なるリボンを掛く」

「忙しかときは痛かとですよ」 性病検診も重荷に

 この女性は女郎屋の主人から衝撃的な「事実」を知らされる。シンガポールに来るまでの旅費や宿泊費、手数料などとして膨大な額の借金を負わされていた。絶望的な気持ちになり、涙があふれた。

 最初の客は現地で商売をする日本人だった。初めての体験だった。「水揚げ」は人気が高く、客は通常より高い料金を払うが、すべて女郎屋が受け取り、女性の取り分はなかったという。

 短時間(ショート)は3ドル、一晩で15ドル。女性は「借金」を返し、日本に残した家族に送金するため懸命に働いた。

 女性の肉声が残っている。

 「忙しかときは痛かとですよ、あそこが。それで這(は)うて廊下と階段を行くとですよ。あれが女郎の地獄ですよ」

 「そんなんとを、49(人)したよ。わたしゃ、一日一晩のうちに。いっぺん、そういうことのあった。昼の午前中、9時から。晩のちょっと3時ごろまでな。もうね、泣くにゃ泣く」

 客が多いときは朝から未明まで、1日49人の相手をした。痛みは、ワセリンを塗ってしのいだ。

 「ほんなごて、情けなか。いやらしゅうて、今も忘れられん。おそろしゅうて……」

 苦痛に追い打ちをかけたのは、性病対策のための洗浄だった。当時、性病のまん延を防ぐため、娼婦は1人の客の相手が終わるごとに、膣(ちつ)内を消毒洗浄するよう指示された。疲れた体をひきずるように部屋から洗い場まで毎回階段を上り下りすることは重い負担だった。この洗浄が原因で不妊になった女性もいるという。

 「いっぺん、一人一人、一人一人、階段でしょう。そりゃもう立派な階段ですよ。それが上りくんだりで、おまけに熱いお湯に、な。衛生が正しかけん向こうは(娼館は衛生がすべてだから)。やかましかっですもん」

 娼婦に毎回の洗浄を求めたのは、週に1度、医師によって行われる性病検診に引っかからないようにするためだった。娼婦は1人1冊、日記帳のような帳面を渡され、月経周期やいつ客を取ったかなどを細かく記録していた。医師は検診で問題がない場合はそれにサインし、客も安全であることの証明として帳面を娼婦に見せるよう求めていた。

 「それ(帳面)がものをいうとですたい、女郎にはな。客が威張って出せって言う。(帳面を見て)『はい』って言うてから、オーライって言うてから、……馬んことやらす」

 性病検診は、軍人や船乗り、クーリー(苦力=中国人労働者)らが性病にかかり、まん延することを防ぐことが目的だった。娼婦が性病にかかっていると分かると、娼館が営業停止になるなどペナルティーを受けたとされる。嶽本さんは「重視していたのは公衆衛生のため、娼館のため、客のためという視点です。働く女性自身のためではありませんでした」と話す。

英国人に身請け、中絶と不妊手術迫られる

 1年半、娼館で働いた後、18歳になった女性はイギリス人のフォックスという男性(当時27歳)に身請けされる。身請けとは、娼館への借金を肩代わりして精算し、娼婦をやめさせることだ。シンガポールでは、イギリス人が現地で娼婦を愛人にすることは珍しくなかった。

 当時女性には他に好きなイギリス人がいたが、強引に身請けしたフォックスと8年間暮らすことに。フォックスは宝飾品をたくさん買い与え、島原の実家にも送金してくれた。身請けされた後、女性は日本人の間で「ダイヤモンドおなご」と呼ばれ、経済的には不自由のない生活を送ることができた。

 しかし、結婚をして子どもを持つという生き方は選べなかった。22歳のころ、妊娠が分かった際は、…

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