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地元で産声を上げ、地元から離れず、地元の人々に愛される会社がある。広島県内に本社を置く創業100年以上の老舗企業は945社を数え、昭和の原爆投下や平成のバブル経済崩壊など幾多の危機を乗り越えてきた。令和の時代を迎えてなお変わらぬ情熱で物をつくり、物を売る経営者らは何を思うのか。新型コロナウイルスの収束が見通せない今、創業1913(大正2)年の老舗眼鏡店を訪ねた。【賀有勇】
べっ甲柄と紫色の組み合わせ。日本の会社員なら尻込みしてしまいそうな眼鏡をさらりと掛けてみせるのは、広島市中区に本店を置く「メガネの田中」の4代目社長で、ジャマイカ出身のデイミアン・ホールさん(44)だ。先代の田中登志子さん(2019年に80歳で死去)の娘と結婚し、2016(平成28)年に老舗の看板を託された。
日用品メーカー大手「P&Gアジア」などに勤めた経験から経営を見る目はシビアだが、13年に専務に就いたときは「良質な顧客サービスというDNAが受け継がれている」と感じた。
今に受け継がれるDNAはいつ生成されたのか。メガネの田中が創業した1913年は、民主主義の高まりを受けた大正デモクラシーの頃に重なる。初代の田中末吉さん(故人)が市中心部に興した前身の「田中眼玉堂」は、広島で初めてレンズ研磨機を導入した眼鏡専門店として繁盛した。
だが41(昭和16)年、日米の戦端は開かれる。軍都の色合いを濃くしていった広島は米軍による45年8月6日の原爆投下で、焼け野原と化した。爆心地に近い市中心部にあった家族経営を中心とする中小企業は壊滅的な打撃を受け、田中眼玉堂も店舗が焼失した。
ただ、研磨機などの機材は事前に防空壕(ごう)や疎開先に移しており、田中眼玉堂は再興する。終戦翌年の46年には、旧満州(現中国東北部)から2代目の田中義男さん(故人)が復員。「田中が帰ってきました」と書いた半紙を電柱に貼って回り、市内随一の繁華街・流川に建てた仮設店舗で営業を再開した。出来合いの品が多いなかで顧客に合わせた眼鏡を提供する店は再びにぎわうようになる。
高度経済成長に乗った。66年にはメガネの田中に社名を改め、74年に社長を継いだ田中登志子さんは実用面以外の眼鏡にも注目。社員によるファッションショーを開いて装飾品としての魅力を伝え、他社との違いを際立たせた。そんな歩みを振り返ってなお、デイミアンさんは「さらに100年存続するためには革新が必要とも感じた」と言う。
大量消費の時代に陰りが見え始めると、2008年のリーマン・ショックが追い打ちをかけた。消費者のニーズは高品質か低価格かの二極化が進み、デイミアンさんは高品質と高サービスを追い求めるブランドの「再構築」に取り組んだ。
社員との面談でやる気を引き出すとともに、店内を明るい内装に一新した。さらにIT化に踏み切った。来店客にはタブレット端末を用いた「似合う」眼鏡を提案し、眼鏡とともに手がける補聴器は遠隔カウンセリングを導入した。「変わらなかった部分を探す方が難しい」。社員たちが口をそろえるほど、メガネの田中は劇的な変化を遂げた。
デジタル化は、令和の世を襲ったコロナ禍でウェブ上の顧客対応などに生かされた。感染拡大に伴い来客数は減ったが、デイミアンさんは「気持ちが暗くなる状況の今こそ、人生に彩りを」とさらに打って出た。定額料金を毎月支払えば割安で眼鏡を3回まで交換できるサービスを始め、高い顧客満足度を得ている。
家族経営で始めた眼鏡専門店は今や全国で100店舗以上を展開し、従業員が800人を超える企業へと成長した。「わたしたちは見える驚き、見られる喜びを与えたい」。デイミアンさんが掲げた企業理念には、顧客に寄り添いながら新しさを取り入れてきた創業からの道程が見て取れる。コロナ禍などに負けない、老舗企業の矜持(きょうじ)が込められている。
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