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ストーリー

松葉づえのカメラマン、人生変えたスクラム事故 組んだ相手から36年ぶりのメッセージ

ロックバント「頭脳警察」らが出演するライブを撮影するカメラマンのシギー吉田さん。「マツコ」と名付けた相棒の松葉づえは、もう20代目ぐらいという=東京都渋谷区で2020年11月30日、北山夏帆撮影

 東京・渋谷のライブハウスは新型コロナウイルス対策で何台もの空気清浄機が並んでいた。東京都在住のカメラマン、シギー吉田(本名・吉田茂樹)さん(56)は「マツコ」と名付けた相棒の松葉づえに迷彩ズボンのお決まりのスタイルで現れた。「転んで何度も骨折してるし、よくカメラマンやってるなって思うね。でも工夫すれば撮れるものってあるから」と笑った。【竹内良和】

 11月30日夜。ステージに立つのは大ファンであり、伝説的ロックバンドと称される「頭脳警察」のPANTAさん。20年近く撮り続け、いつしかバンドの公式カメラマンになった。「本気出すからね」とつぶやくと、風変わりな男に目を落とす観客をよそに、床をはいながらシャッターを切り始めた。泥にまみれた10代の頃から強気でがむしゃらに歩んできた。

 1982年3月27日を忘れない。栃木県立佐野高校ラグビー部の副将として高校日本代表の登竜門となる群馬県での合宿に招集された。スクラム最前列の1番プロップ。「首の力で相手をめくり上げ、いいところを見せよう」と勢い込んでいた。前年の全国大会決勝ではドラマ「スクール・ウォーズ」のモデルとなった京都の伏見工が初優勝。高校ラグビーは盛り上がった。

 スクラムが崩れ、首をひねったシギーさんが倒れて口にしたのは「体がありません。救急車を呼んでください」。芝生と土のにおいは分かるが、手や足の感覚がない。頸椎(けいつい)損傷だった。

 その日の夜。搬送先の群馬大病院に高校生がたった一人で訪ねてきた。スクラムで真正面から肩を組んでいたという。シギーさんの両親が脇で見守る中、「ごめんな。ごめんな」と絞り出すように呼び掛けていた。でも、息苦しさで「ウー、ウー」とただうなり声を上げるだけだった。

 54歳の誕生日。あの夜、言葉を交わせないまま病室を去った高校生から36年ぶりに連絡が来た。

当事者36年ぶり再会

 17歳で頸椎(けいつい)を損傷し、松葉づえが相棒のシギー吉田さんは「カメラマンの仕事は居場所だ」と言う。走ることも、よじ登ることもできなくても、「記録係」としてなら大抵のことには加われる。新型コロナウイルス禍に阻まれているが、東日本大震災から10年を迎える三陸地方も訪ねたい。がれきの街で撮影に歩く中、宮城県南三陸町で“兄貴”と慕える震災遺族と知り合った。年末も電話で近況を報告し合い「みんなの続きを撮りたい」との思いを伝えた。

 2011年夏、町職員ら43人が津波で犠牲になった南三陸町防災対策庁舎の前に咲いていたヒマワリを撮った。家族のように肩を並べて咲く姿に心を奪われ、一度はハンドルを握る車で通り過ぎたものの、引き返してシャッターを切った。種をまいたのは、庁舎屋上で波にのまれた20代の男性職員の母親ら。一家に写真を贈ったのがきっかけで交流が始まり、野球部の名投手だった父親とは、10代をスポーツにかけた男同士、意気投合した。

 冬になり、家を訪ねて仏壇に焼香させてもらうと、ヒマワリの写真を額に入れて飾ってくれていた。あの日、ビルに上って助かった祖母が涙声で言った。「何で孫を持っていくんだ、津波は! 私が流されればよかった」。シギーさんはかける言葉もなかった。日常を突然奪われた被災者がかつての自分に重なった。

 1982年3月27日。ラグビー高校日本代表の登竜門となる群馬での合宿中にスクラムが崩れて首の骨を折った。入院直後は脇から下の感覚がなく、顔をかくことすらできない。天井の模様を見つめる毎日だった。「練習に戻らなきゃいけないんだ」「いつ治るんだ」と泣き叫んだ。母の孝恵さん(80)は赤子のようになった息子を気落ちさせまいと、明るく振る舞った。当時の日記が残っている。

 <5月6日(木) 消灯になって茂樹がいうので、小さかった頃よく歌った「こいのぼり」や「富士山」を小声で歌いました。涙を流しながら聞いている茂樹を見ると、私まで歌声がつまります。家にいても、君がいつも帰ってくる時間になると、今にも玄関のドアが開く音がして「ただいまー!」という元気な声が聞こえる気がする。残念で悔しくて悲しくて>。その晩は、こらえきれずに病室で泣いてしまった。「ボク、頑張って治すよ」と慰められ、日記にはこう続けた。<きっと良くなるよ。茂樹ガンバレ!!>

 独協医大(栃木県壬生町)の体育教員だった父の卓司さん(84)は仕事後、車で2時間かかる病室に通い、関節が固まらないように手足をマッサージした。「ラグビーをやらせなければ……」と後悔もした。東京教育大(現筑波大)ラグビー部時代の後輩が監督を務める佐野高校の試合を見せに行ったのが、息子がラグビーを始めたきっかけだった。

 ベンチプレスで120キロを持ち上げたはずの体は、寝返りさえ打てない。けれど、若い女性の看護師さんが介助でやって来ると、胸がドキドキした。「俺は全く変わっていない。手も足も動かないのにスケベなままだ。きっと良くなるに違いない」。10代男子の希望だった。

 「花園の入場行進に出すから頑張って歩く練習をしろ」。交代で病室に来てくれる部員の励ましを糧に、半年ほどで何とか松葉づえで立てるようになり医師を驚かせた。でも、回復には限界があり「車いすを買ってください」と告げられて大泣きし、決して聞き入れなかった。

 年の瀬になり、佐野は3年連続4回目の花園出場を果たす。入場行進はかなわなかったが、グラウンド脇で仲間の試合を見守れた。春には高校に復学し1年遅れで卒業。「元の体には戻らない」とは気付いていたが、ラガーマンに戻るという希望のみが支えで認められなかった。

 「医学者になって頸椎の研究をし自分で体を元通りにしてやる」と医学部を目指し浪人生活へ。ただ、人前に出るのが嫌で部屋にこもるか、リハビリに励むかで時間ばかりが過ぎた。好きなパチンコで勝って手に入れた一眼レフカメラを持ち、グラウンドを訪ねては「兄貴の代わりに」とラグビーを始めた弟の雅樹さん(53)を撮った。望遠レンズをのぞくと一緒にプレーしている気分になれた。

 4浪目の春。バブル絶頂の中、仲間は社会人となり、取り残された気分になった。事故があった合宿に佐野高主将として共に招集されていた石井勝尉(かつのり)さん(56)は、早稲田大4年でラグビー日本代表としてスコットランド戦に出場。社会人の強豪チームから複数誘いがあったのに、栃木県の教員になった。夢を代わりにかなえてくれていただけに戸惑った。病室を見舞ってもベッド脇に笑顔で立ち続け、握手だけして帰る不器用な石井さんが言ったのは「俺たちが過ごした高校時代のような体験を子どもたちにもしてほしい」だった。教員になれば練習もままならず、日本代表の赤白ジャージーを脱ぎ、指導者になることを意味した。親友に「ラグビーにしがみつくな。新しい夢を持て」と教えられた気がした。

 5浪目も不合格だった。国立大の面接でも「医学部は実験や実習が多いし、設備的に足の障害を持った学生を受け入れられるか分からない」と言われ、心も完全に折れた。パチンコ店の開店を待つ行列に加わる日がしばらく続いていたときラグビー部の先輩が言ってくれた。「吉田らしくないな。日本で医者になれないならアメリカでなればいいじゃないか」

 90年夏に単身で米国オレゴン州へ渡った。ベトナム戦争で負傷した多くの若者を受け入れてきた経緯から、大学はバリアフリーが進んでいた。障害がある学生は体育の実技の代わりにリハビリをすると、単位がもらえた。ただ甘やかされもしない。学期終わりに身体能力の回復度を測り、5段階で評価が下された。

 キャンパスには自分と同じように一度は社会をドロップアウトした学生もたくさんいた。多様な価値を受け入れてくれていた米国暮らしの中で、ラグビーに対する執着は薄れ、愛着へと戻っていった。医学者へのこだわりも好きなカメラの勉強に向いた。オレゴン大数学科を卒業後、カメラマンやライターとしてITから風俗雑誌の取材まで挑み、やがて留学時代のニックネームを冠した「シギー吉田」として活動を始め、02年には中東パレスチナ自治区までつえで出かけた。

 石井さんの赴任先で部活の「押しかけコーチ」もさせてもらい、ラガーマンであり続けられた。40歳で結婚し2人の息子にも恵まれた。17歳のときには思いもかけなかった日常をつかめた。「根拠のない希望だって力になったから不安な未来に向かって行けた。希望がなくなれば物語はそこで終わってしまいます」

宝は日常に、友は身近に

 18年5月1日、54歳を迎えた誕生日の朝。1通のメッセージが届いた。<大変ご無沙汰しております。国学院久我山で3番をしていた山田徹です>。スクラムが崩れた時、正面から肩を組んだ右プロップ。顔も思い出せなかった。シギーさんとフェイスブックでつながる友人の紹介で連絡してきたという。<ずっと心の片隅で会いたいと思っていました。17才の山田君にも辛(つら)い経験をさせてしまったと、大人になって思ったからです。是非、一度会いましょう♪> 山田さんからの返信の重さが気になった。<やっと肩からラグビーの重荷が降ろせます>

 2カ月後に再会。夏になり、高校時代に心配をかけた両親たちをそろって訪ねることにした。移動の車中、山田さんは孤独で長い歩みを打ち明けてくれた。

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竹内良和

2000年入社。神戸支局、福島支局、東京社会部などで勤務し、主に東日本大震災の被災地や東京都政の取材に携わってきた。震災の発生翌日に東北入りし、被災された方の歩みを追うシリーズ「3・11それから」の取材などを続けている。2015年はネパール大地震も取材。東京オリンピック・パラリンピックの招致や延期も長くウオッチした。ヒューマンストーリーの執筆が好き。

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