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竹中の初代藤兵衛は普請奉行として織田信長に仕えていたが、信長が亡くなると主家再興の日を待ち望んだ。そのキーマンは羽柴秀吉だった。明智光秀を討って主導権を握った秀吉は、信長の息子信雄(のぶかつ)や信孝らと京畿(けいき。京都に近い摂津、河内などの5カ国)と美濃や尾張を鎮圧してから、尾張国の清洲(きよす)城(愛知県清須市)に入った。
織田家の後継者を選ぶ清洲会議が開かれ、柴田勝家や秀吉らが顔をそろえている。会議では、信長の直系を奉戴するという大義名分により、嫡孫(ちゃくそん)の三法師(後の秀信)が後継者に決まった。その後の経緯について、社史から引きたい。
<織田家の正統を継いだ三法師は、天正12年(1584)の長久手の戦で、秀吉が家康と信雄の連合軍に敗れたとき、安土城から岐阜に移されて、秀信と名付けられた。3才であった。(略)信雄が下野に追われた1590年頃までは、清洲は依然として信雄の本拠であったと思える。(略)竹中藤兵衛もこの頃までは織田一族に仕えていたと考えられぬことはない>
秀吉が1598(慶長3)年に死去すると、家康は豊臣方と手切れになり、2年後に関ケ原の決戦が始まった。この戦いで豊臣方は完敗を喫し、5年後、織田家の正統秀信が鬼籍に入る。信長が死没してから、すでに23年の歳月が流れていた。
竹中藤兵衛が武門を捨てる決意を固めたのは、社史によると<おそくとも、慶長5年前後であったものと考えられる>。岐路に立った藤兵衛は、神社仏閣の造営を主業にする腹積もりだった。普請奉行の体験から、活路を工匠の道に求めたのである。
竹中が創業を1610(慶長15)年としているのは、この年に清洲城下の武家や商工業者が、名古屋へ集団移住を始めたことによる。家康が命じた名古屋城の築城に伴う「清洲越し」だった。社史はこう付記している。
<この清洲越しの以前に竹中家が名古屋に移っていて、既に棟梁(とうりょう)として仕事をしていたことは事実であるから、真の創業といえば更に数年を遡(さかのぼ)るであろうし、清洲在住時代である可能性が多い>
名古屋城の天守閣は1612年に、城は3年後に完成している。<史上最大の延床面積を誇った大天守、絢爛(けんらん)豪華な本丸御殿、さらに鉄壁の守りを固めた要塞(ようさい)としての機能を備え、城郭として国宝第一号に指定された名城でした>(名古屋城のホームページ)
ところで、明治の初めに名古屋城の修理があり、このとき多量の古材が払い下げられた。その中から「竹中」と彫り込まれた古材が発見されており、「御天主竹中」の達者な彫りもあった。<名古屋城造営の頃には、竹中は一応棟梁として認められていたことが推定される。竹中の創業が清洲以前であることの根拠もここにある>(社史)
古材の「御天主竹中」が示しているように、竹中藤兵衛は棟梁として名古屋城の天守閣造営をはじめ他の諸建築に携わったとみられる。
(敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史による。次回は1月23日に掲載予定)