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常夏通信

その78 戦没者遺骨の戦後史(24) 硫黄島でも「遺品縛り」が解けた!

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タラワに上陸した米軍。戦力では圧倒的に優位だったが、日本軍守備隊の迎撃に苦しんだ=1943年11月撮影、米国立公文書館所蔵
タラワに上陸した米軍。戦力では圧倒的に優位だったが、日本軍守備隊の迎撃に苦しんだ=1943年11月撮影、米国立公文書館所蔵

 大日本帝国の戦争については、大別して二つの見方がある。すなわち「大東亜共栄圏確立、欧米が植民地支配しているアジアを解放するための戦いだった」という見方と、「侵略戦争だった」というものだ。思想的に言えば、前者は「右」で、後者は「左」と重なるだろうか。その「右」「左」の双方から愛読される作家がいた。司馬遼太郎(1923~96)である。「竜馬がゆく」や「国盗り物語」など、歴史小説で数々のベストセラーを残した司馬は大阪外語学校在学中に学徒出陣し、陸軍の戦車兵になった。驚異的な博学、硬軟自在に書き分ける巧みな筆致で多くの読者をとらえ、独特の歴史観は「司馬史観」と呼ばれた。その「史観」による戦争観が興味深い。

“国民的作家”司馬遼太郎の戦争観

 たとえばコラム「大正生まれの『故老』」(新潮文庫「歴史と視点」に収録)では、「太平洋戦争」の日本の戦い方を<常識で考えられない多方面作戦――大空に灰を撒(ま)いたというような、いわば世界戦史に類のない国家的愚行――>と論じ、<兵力の分散を避けるというのは軍事の初歩だが、かれらは足腰の立つ国民を総ざらいにして日露戦争程度の装備をもたせ、中国から北太平洋、南太平洋の諸島といった、地球そのものにばらまいてしまった。ばらまいたあと、どう始末するつもりもなかった>と断じた。

 誇張があるとはいえ、帝国陸海軍の戦い方の本質を突いた指摘でもある。

 つまり、国力・戦力をはるかに超えた規模の戦争をし、本土からはるか離れた地域に兵士を送り込むものの、補給は近代戦の常識をちゃぶ台返しするように軽視して事実上見殺しにする、という戦い方だ。この結果、多くの地域で日本軍守備隊は「玉砕」した。

「国家的愚行」の犠牲になった兵士たち

 例えば、中部太平洋のギルバート諸島(キリバス共和国)のタラワ環礁。戦後75年の2020年、このタラワが日本の戦没者遺骨収容史の大きな画期となった。

 ギルバート諸島は、もともとはイギリスの植民地であったが、1941年12月の開戦後ほどなくして日本軍が占領した。日本本土から約5000キロ離れた赤道直下の地であり、日本軍が占領した地域の中で最も東に位置していた。米軍は日本本土に侵攻すべく、西に進もうとしていた。サイパンなどのマリアナ諸島を占領し、そこから日本本土爆撃を目指していた。そのためにまず中部太平洋の制圧を目指した。1943年11月21日、タラワに米兵約1万7000人が上陸した。迎え撃つ日本軍は、5000人足らず(施設などを整備する設営隊約2000人を含む)であった。米軍は上陸前、執拗(しつよう)な空襲で日本軍の陣地をたたいた。

 戦闘前の同年9月、大本営(戦時に組織され、天皇に直属する最高戦争指導機関)は連合国軍の本格的な反撃に備えて「絶対国防圏」、つまり敵の侵攻を許してはならない戦線を縮小していた。タラワはその圏外にあった。何の補給もない日本軍守備隊の「玉砕」は時間の問題であり、まさに「見殺し」であった。司馬は「どう始末するつもりもなかった」と指摘したが、あえて言えば「守備隊は死ぬまで戦え。援軍はない」という方針が始末の仕方であった。

見捨てられたタラワ

 見捨てられた日本軍守備隊は柴崎恵次海軍少将の指揮の下、激しく抗戦し米軍に甚大な被害を与えた。戦死者およそ1000人、戦傷者は2000人を超えた。彼我の戦力差を考えれば、日本軍の驚異的な善戦であり、米軍は戦術的な誤りを犯したとも言える。とはいえ、3日間の戦闘で米軍が占領した。

 大本営がタラワの戦いを同じギルバート諸島マキン環礁での戦闘と合わせて発表したのは同年12月20日であった。同じ3000人の「寡兵」が「5万」の敵を迎え撃ち、「連日奮戦、我に数倍する大損害を与えつつ敵の有力なる機動部隊を誘引して友軍の海空作戦に至大の寄与をなし」たとした。つまり、両環礁の日本軍守備隊が米軍の航空母艦(空母)艦隊を引きつけたことにより、日本軍による他の地域での戦闘に貢献した、という言い分である。

 それが事実かどうかは分からない。はっきりしているのは、米軍上陸後、日本軍守備隊への「友軍」による航空機や艦船での支援はまったくなかったということだ。その結果は「十一月二十五日最後の突撃を敢行、全員玉砕せり」であった。

 この「大本営発表」の翌日12月21日、毎日新聞は1面でそれ…

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