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渋沢栄一のルーツ、血洗島村の「中の家(なかんち)」の歴史をたどる2回目は、家業の藍玉製造販売をひもとく。
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中の家に婿入りした元助は、当主の通り名「市郎右衛門(いちろうえもん)」を名乗った。生来の勤勉さで、麦などの畑作に加え、養蚕や雑貨商、質屋業などに励んで家運を盛り返し、村内で「東の家(ひがしんち)」に次ぐ富農となった。豊かになった後も、中の家の耕地面積は2町歩(約2ヘクタール)に足りず、農作物による収入は限られる。中心となったのは、藍染めの原料となる藍玉の製造販売だった。
深谷市史追補篇(ついほへん)などによると、血洗島村は水田に適した土地が少なく、各農家は小規模な畑で大麦や小麦、大豆などを耕作。そこに幕末ごろ、四国の阿波(徳島県)から藍の栽培や藍玉の製造法が伝来した。
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