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1902(明治35)年にシベリア鉄道の終点・ウラジオストクとの航路が開設された敦賀は、大陸に向けた表玄関になった。12年からは、同航路と連絡する新橋(東京)―金ケ崎(後に敦賀港と改称)の欧亜国際連絡列車が運行され始めた。
日本海地誌調査研究会の井上脩氏(故人)が残した記述によると、金ケ崎発着の車両は、1・2等の寝台車、2等客車、3等客車、荷物車がそれぞれ1両で編成された。豪華な展望車が増結されることもあった。英国の8700形など外国製の蒸気機関車がけん引した。新橋発神戸行き急行の場合、米原(滋賀)で切り離され、金ケ崎に向かった。乗務員の列車長は英語も話したという。
船でロンドンやパリまで向かった場合、横浜や神戸からスエズ運河経由で約1カ月かかったのに対し、東京から敦賀を経てシベリア鉄道で行くと、15、16日間と所要時間が半分になった。
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