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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/3 匠家の証しは大隅流=広岩近広

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大隅流の装飾彫刻が施された大宝神社(滋賀県)の「龍の彫物」 拡大
大隅流の装飾彫刻が施された大宝神社(滋賀県)の「龍の彫物」

 竹中の初代藤兵衛は刀剣を捨てた1600(慶長5)年ごろから、名古屋を拠点にして主に神社仏閣の造営を手がけるようになった。当時の工匠が独立するには門外不出の流派を要し、宮大工の竹中家は「大隅流」を掲げた。

 なぜ、独自の流派が必要だったのか――。実は室町時代に商工業を営む場合、特定者だけが市場を独占できる仕組みになっていた。それが「市」と「座」であり、欧州でギルドと呼ばれた同業者の自治団体に似た組織だった。社史は次のように説明している。

 <建築においては、この組織網が張りめぐらされている上に更に、技術上の流派があって、一流一派を樹立しない限りはこの組織の中で工匠として立つことは到底望めなかった。この組織には、朝廷、公卿(くぎょう)、社寺につながる強力な背景があったことは言うまでもない。戦国時代になると、各地の大名はこの制度を多少とも緩和して土地の繁栄をはかる政策をとったけれども、業者は業者の自衛のために、この慣行の力は容易に抜けないままに推移した>

 そこで、織田信長の登場である。滋賀県の安土に築城して新しい町づくりを進めるにあたり、信長はこの制度の緩和に努めた。まず、商業についてはすべての課税を廃止する。住民には借米や借地料といった諸税の免除などの施策を行い、自領内の関所も撤廃した。信長による「楽市」と「楽座」であった。

 しかし、信長の亡き後、様相は変わる。<織田一族の相克をはじめ、各地の諸将も互いに機をうかがう世の中では、自己防衛のためにこの緩和政策に逆行せざるを得なくなったことは、その後の実情がよくこれを示している>(社史)

竹中独自の大隅流による上棟式で設けられる祭壇 拡大
竹中独自の大隅流による上棟式で設けられる祭壇

 竹中藤兵衛が工匠で一家を成すには、門外不出の流派が必須であり、藤兵衛が創り出したのが大隅流だった。明治に至るまで竹中家を「大隅屋」と呼んだのは、この大隅流に由来する。続けて、社史から引きたい。

 <竹中工務店は建築工事の上棟式などにおいて、“大隅流”をもって祭式を奉仕することがある。この大隅流は初代藤兵衛によって創始されたものと伝えられているが、これと同時に、建築技術面では大隅流絵様(えよう)が創始された>

 絵様について広辞苑のデジタル版は、<鎌倉時代以降の建築で、虹梁(こうりょう)・木鼻などにほどこした模様または装飾彫刻>と説明している。神社仏閣に見られる彫り物が絵様で、これにより棟梁の流派を判別できた。竹中独自の大隅流は、祭事の規式であり、また絵様であった。

 大隅流による上棟式では祭壇を設け、家屋の守護神や工匠の神さまなど三祭神を祭った。祭壇には儀式用の大工道具と縁起物の鯛(たい)や果物がお供えとして並び、厳かな中にも華やかさがあった。この建築儀式について、竹中大工道具館(神戸市中央区)が開催した企画展「祈りのかたち」のパンフレットに、次の記述がみられる。

 <人々は古来より土地、樹木、建築などさまざまなモノに神が宿ると考え、そこに人の手を加えるときには「祈り」を捧(ささ)げることで、神々の御心を鎮め、安全を祈願してきました。建築工事においても地鎮祭から竣工(しゅんこう)式に至るまで様々な儀式がとりおこなわれます。そこには現代社会では失われつつある人と自然と建築との豊かな関係性が今でも息づいています>

 ここに、初代竹中藤兵衛が創始した、大隅流の神髄がみられる。

 (敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。次回は1月30日に掲載予定)

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