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「条約はこの空の光のように地球を照らしていると思う」。核兵器禁止条約が発効した22日、長崎市の平和祈念像前であった「発効を祝うつどい」であいさつに立った被爆者、田中重光さん(80)は青空を見上げた。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表委員や長崎原爆被災者協議会(被災協)の会長を務めながら、条約制定を目指して「ヒバクシャ国際署名」でも先頭に立ってきた。
4歳の時、爆心から約6キロの長崎県時津村(現時津町)で被爆。閃光(せんこう)と爆風に包まれ、建物のガラスが吹き飛んだ。けがはなかったが、母は爆心地近くの知人の安否を確かめに行って入市被爆。それ以降、めっきり病気がちになって入退院を繰り返した。母が体を壊していらだつことが多くなった父は酒に浸り、母に暴力を振るった。貧困にあえぎ、原爆を落とされるまで明るかった家庭に暗い影が落ちた。
1957年、父が肝臓がんで亡くなった後は家計を支えながら弟と妹の高校卒業を見届け、29歳で被爆2世の妻と結婚。長女と長男は健康に育ったが、長女が出産した男児は…
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