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広島への原爆投下から75年と169日。核兵器禁止条約が発効し、広島市西区の被爆者、舛田益実さん(86)は「やっとか」と口にした。あの日、犠牲になった兄の遺品は、条約の採択に貢献した国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のノーベル平和賞受賞に合わせてオスロで展示され、核兵器の非人道性を多くの人に訴えた。「兄も生きていれば、原爆の惨禍を二度と繰り返すなと言うはず。『皆殺しの兵器』は、地球上からなくさなければならない」。言葉に力を込めた。
1945年8月6日、10歳で国民学校の5年生だった舛田さんは爆心地から4・2キロ離れた学校の校庭(現広島市西区)にいた。東の空に閃光(せんこう)が走り、爆風で学校の瓦が吹き飛んだ。ガラス片に覆われた道を走って帰宅した。市中心部から逃れてきた人々は血みどろで、一人、また一人と倒れていった。母の出産を手伝いに来ていた大叔母の声が今も耳に残る。「ゆきちゃんが帰らんのよ」
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