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#自助といわれても

「まず自分で何とかしろと言われているようだ」。菅義偉首相が目指す社会像として「自助、共助、公助」を掲げたことに対して、そんな声が広がっています。自力ではどうにもならない困難を抱えた人たちの姿が、私たちにはどこまで見えているのでしょうか。現場の声に耳を傾けました。

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町から届いた冷酷な順序 ALS患者でさえ家族介護を求める行政の“誤解”

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1人暮らしをはじめ、誕生日を祝ってもらう小林さゆりさん=2020年6月、本人提供
1人暮らしをはじめ、誕生日を祝ってもらう小林さゆりさん=2020年6月、本人提供

 <福祉の考え方の基本は、「自助」→「共助」→「公助」です>。山里の最低気温がマイナス7・7度まで冷え込んだ2017年2月24日に長野県信濃町の住民福祉課から発せられた一通の文書が、町内に住む小林さゆりさん(56)の元に届いた。全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」を患っていた。年老いた母親(当時78歳)による介護が難しくなり、法的に保障された長時間介護の実施を信濃町に求めたが、事実上拒否されたのだ。「自助」が限界を迎える中で、小林さんは尊厳を持って生きるために、「公助」を求める闘いを始めた。【塩田彩/統合デジタル取材センター】

ALS介護を担うのは78歳の母

 小林さんは長野市内で1人暮らしし、化粧品の開発などの仕事をしていたが、07年にALSと診断された。最初は左手の親指が動かしにくいのが気になる程度だったが、次第に腕を上げるのもつらくなった。17年には、ほとんど自分で体を動かすことができなくなっており、母親を頼って信濃町の実家に身を寄せていた。当時受けていた訪問介護などの公的支援は1日平均2時間程度。残りの時間の介護は、78歳の母が一人で担っていた。

 母は小さな体で娘の体を車椅子から持ち上げ、便座に座らせて排せつの介助をしていた。小林さんがトイレに行けるのは、訪問看護などを利用した午前10時と午後4時、それに母が一人で介助する午後10時の3回のみだった。

 小林さんに話を聞くと、視線を動かしてパソコンに一文字ずつ入力するソフトを使い、当時をこう振り返った。「家族にもそれぞれ人生があり、お互いが犠牲や負担を感じ合うことはとても過酷でつらいことです」

 小林さんは、自分で寝返りをうつことができなくなっていた。それでも夜間は母を休ませるため、夜は別の部屋で寝てもらっていた。午後11時、枕と頭の位置が決まり、ガラス格子の引き戸が閉められると、長い夜が始まる。枕の位置がずれて首が痛くなっても、鼻水が詰まっても、何もできないのだ。夏には、動かせない顔に蚊が止まった。冬には、拭き取ることのできない唾液が寝間着やベッドシーツをぐっしょりとぬらし、体が芯まで凍えた。

気管切開で「生きられる」「生きたい」

 ALS患者は、徐々に筋力が低下し自発呼吸が難しくなった時、気管切開して人工呼吸器を装着するかどうかを選択する。気管切開すれば、夜間も含めて頻繁なたんの吸引が必要になり、24時間介護なしには生活が難しい。小林さんには、気管切開する前からたんの吸引が必要だったが、カテーテルを鼻の奥まで差し込む吸引を母は怖がり、週3日の訪問看護に頼っていた。訪問看護がない日には、母に昇降椅子やトイレの便座に座らせてもらい、首を左前に傾けて頭を下に向け続けることにより、約30分かけて、胸元に置かれたタオルに自力でたんを出していた。

 小林さんは当初、自発呼吸ができなくなったら「死」を選ぼうと考えていた。けれど、14~15年ごろ、気管切開し1日24時間の重度訪問介護制度を利用して暮らしているALS患者がいることをインターネットで知った。気管切開して母に負担をかけることはできない。でも、もしも、24時間支援の「公助」が実現すれば――。その可能性に気がついたとき、小林さんは「生きられる」「生きたい」と思った。

 16年8月ごろから、かすかに動く左の手のひらの圧力を感知するマウスを使い、視線入力で一文字一文字、パソコンで文字を打ち込んだ。町に重度訪問介護の申請をしたいとメールを何度か送ってみた。連絡を受けた町が申請書の提出を求めてきたため、何時間もかけて母と二人で申請書を書き上げた。

公助は「自身や家族がすべての役割を果たしてから」

 17年2月、町から返信が来た。文書に書かれていたのは、<自助→共助→公助>という冷酷な順序だった。こうも書かれていた。

 <さゆり様の生命のために大切な決定ですので、至急さゆり様自身が「自助」として、レスパイト(短期入院)をご利用ください。その上で最も大切なお母様とご家族や地域の方の協力や協働、そして補完的な役割として「公助」があります>

 <厳しい伝え方で恐れ入りますが、2月22日のさゆり様のメールへの返信は、さゆり様自身やご家族がすべての役割を果たしていただいてからです>

 重度訪問介護の実施の可否には回答せず、小林さんに対して、一時入院を利用し、法的には必要性のない家族やケアマネジャーらによる「関係者会議」をまず開くよう求めたのだ。

 その後、小林さんの窮状を知った弁護士らが町との交渉にあたったが、約1年後に町が出した結論は、1日9時間半を公的介護サービスでまかなうというものだった。残り14時間半は、家族が担うことができるという判断をしていた。

町財政圧迫への過度な恐れか

 信濃町は人口約7600人。それまで24時間介護を認めたケースはなかった。ヘルパー派遣が長時間にわたる重度訪問介護は、行政の費用負担が大きくなる。弁護団の一人で介護保障制度に詳しい藤岡毅弁護士は「実際には国による財政支援措置もあるが、24時間介護の前例がないことで、誤解も含めて財政圧迫への過度な恐れがあったのではないか」と話す。

 厚生労働省によると、重度訪問介護制度の利用者は年々増え、20年時点で1万1000人を超える。重度障害者らによる「全国障害者介護保障協議会」によると、協議会がアドバイスや支援を行ったALS患者の事例では、ほとんどが数カ月から半年の自治体交渉の末、家族同居でも24時間の重度訪問介護を受けられるようになっているという。 基準を超えた市町村の持ち出し負担分を国が財政支援する仕組みもある。

 一方で、小林さんのように実施を希望する当事者が自治体に門前払いを受けるケースも後を絶たない。協議会事務局の大野直之さん(50)は「自治体職員が重度訪問介護制度について知らなかったり、24時間の介護はできないと誤解していたりすることも多い」と指摘する。

「公助」求めて町を提訴

 町との交渉が思うように進まない中、18年1月には、母が小林さんを便座に座らせようとした際、体を支えきれず転倒してしまう事故も起きた。連絡を受けた支援コーディネーターの吉村まきさん(50)が車で駆けつける約15分の間、母一人では抱き起こすこともできず、小林さんはズボンと下着をおろした格好のまま、冷たい床で待つしかなかった。それまでにも転倒事故は複数回起きていた。家族介護は、もう限界を迎えていた。

 このままでは命の危険があると判断した小林さんと弁護団は、18年3月、24時間の介護義務づけを求め、信濃町を相手取り提訴に踏み切った。

 5月11日、第1回口頭弁論が開かれた長野地裁第1号法廷の原告席に、車椅子の小林さんの姿があった。小林さんは文字盤を通して一文字一文字、意見陳述を行った。

 「ALSの私は、手も足も自分では動かせないので、歩くことや立つことはもちろん、寝返りや食事など何一つ、一人ではできない状態です」

 「夜中に唾液でむせ、一瞬息ができず、死ぬかと思ったこともあります。それがいつ起こるか分からず、最悪、呼吸ができなくなって死ぬのではないかという恐怖をいつも感じています」

 「私の介護のために、家族が、肉体的にも精神的にも負担(犠牲)になっているのが、とても情けなくてつらいです。母の腰が年々曲がっていくのも、私の介護のせいと思うと本当につらいです」

 「私は、私の人生を精いっぱい生きたい」

 藤岡弁護士は「家族には家族の生活がある。本来であれば職業的に訓練されたヘルパーが行うべき支援を『家族だから』というだけで親や子ども、兄弟姉妹に負担させることは、民法の扶養義務の解釈としても適切ではない」と指摘する。

 町は当初、介護時間はすでに認められた1日9時間半が妥当だと主張していた。だが7月、小林さんが1人暮らしを始めることを受け、一転して24時間介護の実施を認め、訴訟は終結した。初めて町に重度訪問介護を求めるメールを送ってから、約2年がたっていた。

 町は訴訟終結後の記者会見で、「支給決定の変更は裁判とは関係ない」と説明。町住民福祉課は「小林さんが(7月から)1人暮らしを始めないで、裁判が続いていたら1日9時間半の支給は妥当という姿勢は変わらなかった」と、あくまで家族と同居が続いていたら、公的介護は一部にとどめたとの立場を示した。

「自助、共助、公助」はこれまでも

 このウェブ連載企画「自助といわれても」は、菅義偉首相が「自助、共助、公助」を掲げたことなどからスタートしたが、その3年前に長野県信濃町から一1人のALS患者にこの言葉が発せられていたことになる。調べると「自助、共助、公助」という考え方は、国の社会保障政策の中でも度々現れ…

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