番外編 76年目の東京大空襲 命を削って街頭活動 今国会での被害者救済求め
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冬の青空が広がる東京・有楽町マリオンの前に、パネル写真が並んでいた。第204通常国会が召集された今月18日の正午。76年前、米軍による無差別爆撃の魔弾で破壊し尽くされた街、そして殺された人たちが写っている。私はその中でも、1枚の写真に目が留まった。あおむけになっている黒こげの小さな遺体。乳幼児らしい。すぐ近くには、うつぶせになった同じく黒こげの遺体。女性のようだ。背中の腰の一部が、肌色のように見える。米軍が無差別にばらまく爆弾の中を、母親が幼児を背負って逃げ惑ったのだろう。東京大空襲があった1945年3月10日、警視庁のカメラマンだった石川光陽が東京都深川区洲崎(現江東区)で撮影したものだ。
黒こげになった母子の遺体
「何度見ても、胸が痛みます」。私はパネルを持っている河合節子さん(81)にそう話しかけた。河合さんは静かに、それでいて強く言った。「この写真に写っているのは、私のお母さんと弟だと思っています」
この日、全国空襲被害者連絡協議会(全国空襲連)の会員や支援者ら約30人が、パネル写真や横断幕、のぼりなどを持って街頭活動をしていた。横断幕には「戦争の後始末は済んでいない! もう待てない、空襲被害者に救済を!」、のぼりには「空襲被害者に人権はないのか」とある。
本連載では「戦没者遺骨の戦後史」を連載しているが、今回は通常国会の開会に合わせて、同国会での民間人空襲被害者らの救済法案成立を願っている人たちの活動を紹介したい。
空襲被害者を苦しめる誤解
河合さんの家は雑穀商で、深川にあった。父親の繁一さん(当時39歳)と母親のゆみさん(同35歳)、5歳だった河合さんに弟の昭義ちゃん(同3歳)と勲ちゃん(同1歳)の5人家族だった。家族は疎開の準備をしており、河合さんは茨城県の親戚の家に預けられた。そして東京大空襲…
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筆者
栗原俊雄
1967年生まれ、東京都板橋区出身。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院修士課程修了(日本政治史)。96年入社。2003年から学芸部。担当は論壇、日本近現代史。著書に「戦艦大和 生還者たちの証言から」「シベリア抑留 未完の悲劇」「勲章 知られざる素顔」(いずれも岩波新書)、「特攻 戦争と日本人」(中公新書)、「シベリア抑留 最後の帰還者」(角川新書)、「戦後補償裁判」(NHK新書)、「『昭和天皇実録』と戦争」(山川出版社)など。