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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/5 「作事」にこめた工匠の誇り=広岩近広

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建物の歴史といわれる竹中の棟札(1818年に造営した三重県玉城町の三縁寺) 拡大
建物の歴史といわれる竹中の棟札(1818年に造営した三重県玉城町の三縁寺)

 竹中の「大隅屋」が、江戸時代に造営した社寺建築は数多い。たとえば三重県志摩市の志摩国分寺本堂や滋賀県米原市の大宝神社、愛知県一宮市の妙興寺山門などである。ここでは愛知県犬山市の寂光院に目を向けたい。孝徳天皇の勅願所として654年に建立され、その後に寂光院と改号したものの、火災で全焼するなどして一時は廃寺となった。寂光院の廃寺を惜しんだ織田信長が復興を命じ、徳川時代も寺領を持ち続けた。

 伊勢湾台風(1959年9月)で倒壊する以前の寂光院蚕堂を手がけたのが竹中で、1823(文政6)年に造営している。さらに1836(天保7)年には、やはり竹中の手で寂光院薬医門が完成した。

 伊勢湾台風で倒れた旧蚕堂の部材が山内から見つかり、竹中関係の部材や彫刻に、こう書かれていた。<大工 大隅屋藤右衛門 竹中和泉掾(じょう)造之 八葉蓮台密寺蚕養社拝殿 棟梁(とうりょう)竹中和泉掾 子息 竹中藤兵衛正義>(社史)。大隅屋藤右衛門の文字から、この蚕堂は竹中の9代藤右衛門によって建てられたとみられる。<番匠竹中和泉輔(すけ)>の記述もあり、竹中の世代について、社史の解説から引きたい。

 <通称に“藤”の一字を用いること、名乗りに“正”の一字を冠するのがしきたりであった。名乗りでは初代の正高をはじめ正敏、正憲、正国、正森などが見られた。官位を受けていた時期には和泉守、和泉輔、和泉掾など、いずれも“和泉”を称していた。官位を離れてからはこのような呼称はないが、なお、単に和泉と称していた>

大隅流による上棟式にあたり、10代竹中藤右衛門が作成した装束着用許可申請書の控え書き 拡大
大隅流による上棟式にあたり、10代竹中藤右衛門が作成した装束着用許可申請書の控え書き

 官位を朝廷から授けられた旨の資料は残っていないものの、1836年の棟札に書かれた官位に「正六位上」がある。社史は<9代当主が受けていたものであろう>として、こう述べている。<徳川時代では、工匠などに授けられる官位は一般に従六位が最高とされていたというから、正六位はかなり抜群のものであったと思える。従ってここに至るまでには、多くの功績と技量が認められていたと推定される>

 竹中の当主たちは、官に頼らず、武家にすがらず、工匠としての道を確固たる信念で歩んだ。たとえば妙興寺山門を造営した際の「口上の覚(おぼえ)」(建築工事の請け書)には、作事(建築工事)の大工棟梁役を命じられたことへの礼を述べたうえで、一切の責任をとると結んでいる。

 普請ではなく作事と明言しているのは、竹中の仕事は普請に属する整地や土木工事と異なり、設計から施工の建設工事だったことを示している。作事を強調した「口上の覚」には、大隅流を創設した竹中の誇りがうかがえる。では、なぜ官位を受けたのか。改めて、社史に目を向けたい。

 <竹中では、上棟式などの式事は“大隅流”によるのがしきたりである。大隅流式祭は神官を煩わさずすべてを工匠だけで取り運ぶことになっていて、その服装は匠長の分が衣冠束帯であった。ところが、無位無冠の者にはその着用が禁ぜられていた。そこで、大隅流によろうとすればどうしても一時的にも官位を持たなければならない>

 一時的な官位とはいえ、なんとも物々しいしきたりであった。

 (敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同社発行の出版物などによる。次回は2月13日に掲載予定)

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