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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/6 江戸の職人を驚嘆させた棟梁精神=広岩近広

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歌川広重の錦絵「名所江戸百景 下谷広小路」(復刻)に描かれた新店舗の「いとう松坂屋」 拡大
歌川広重の錦絵「名所江戸百景 下谷広小路」(復刻)に描かれた新店舗の「いとう松坂屋」

 地震列島の日本は江戸時代にあっても、大地震に襲われている。名古屋を拠点に多くの建造物を手がけていた竹中が、東京に出向くきっかけは安政の江戸地震だった。1855(安政2)年10月2日、江戸川河口を震源地とするマグニチュード6.9、最大震度6強の地震が起きた。大名屋敷や町家が崩れ、火災の発生により被害は拡大した。死者は約5000人から1万人に及んだという。

 江戸でも有数の呉服店で知られた「いとう松坂屋」の焼失は、「江戸商人第一の損失なり」と語り継がれるほどだった。「いとう松坂屋」は名古屋で栄えた伊藤呉服店が、上野広小路の松坂屋を買収して1768(明和5)年に開業した。ちなみに旧松坂屋百貨店のルーツが伊藤呉服店である。

 安政大震災の火災で焼失した上野広小路の「いとう松坂屋」の再建工事に、竹中は名古屋から駆けつけた。棟梁(とうりょう)の11代藤右衛門が、本建築の指名を受けてのことだった。

 実は、竹中の初代藤兵衛と伊藤家の先祖は、尾張国清洲(きよす)で織田信長に仕えていた。主家の没落後は、それぞれが工匠と商道に志を立てて名古屋へ移った。いわゆる「清洲越えの一家」という縁故もあって、竹中は伊藤呉服店関係の建築を請け負っている。そうした経緯から、「いとう松坂屋」の再建工事が発注されたのだろうが、名古屋と東京の距離を考えると、人と物の移動だけでも大変な時代である。まず竹中は、設計と木材の収集を急いだ。社史から引きたい。

 <棟梁、大工をはじめすべての職人は名古屋から連れて行くことにした。そうなれば木材も名古屋で切り組むのがよい。現地では、ただ建方と仕上げだけを一気呵成(かせい)にやろうという方針をとった。当主11代藤右衛門は23才、先代は既に亡く、後の12代はまだ5才であった。この11代が職人たちを連れて、資材とともに船便で江戸に乗り込んだ。これを見て、“あの若造にどれほどの仕事がやれるのか”と冷たい目で見ていた江戸の職人衆であった。それから昼夜兼行の工事がつづいて、土蔵造りの瓦葺(ぶ)きの店舗がまたたく間に落成、開店になった>

竹中工務店には江戸期からの奏上言葉が残っており、正福寺本堂(三重県鳥羽市)の「祝詞」には「文化六年」とある 拡大
竹中工務店には江戸期からの奏上言葉が残っており、正福寺本堂(三重県鳥羽市)の「祝詞」には「文化六年」とある

 安政の江戸大震災からちょうど1年後の1856年9月、「いとう松坂屋」は異例の早さで新築開店にこぎつけた。江戸っ子を驚嘆させたのが竹中の棟梁精神であり、見事な作事(建築工事)であった。大棟梁制の「大隅屋」ならではの本領を発揮したのである。

 浮世絵師の歌川広重は「いとう松坂屋」の営業再開を広く世間に伝えるべく、シリーズ「名所江戸百景 下谷広小路」に、この情景を描いている。「いとう まつざかや」の文字を刻んだ新店舗の前を、大勢の町衆が上野の山へ桜見物に向かう錦絵だった。

 当時の竹中にとって、東京一帯の建築工事は「いとう松坂屋」の関係に限られていた。だが明治になってからは、東京周辺で新たな工事が出始める。名古屋から東京に呼ばれるには、それだけの厚い信頼を得ていたからだろう。竹中が東京に出張所を開設したのは、1911(明治44)年である。

 (敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。次回は2月20日に掲載予定)

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