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常夏通信

その81 戦没者遺骨の戦後史(27) 戦前の硫黄島にあった豊かな暮らし

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硫黄島=東京都小笠原村で2018年1月26日、本社機「希望」から須賀川理撮影
硫黄島=東京都小笠原村で2018年1月26日、本社機「希望」から須賀川理撮影

 第二次世界大戦末期、硫黄島(東京都小笠原村)では日米両軍が激突した。日本軍は2万人以上、米軍も7000人近くが戦死した。凄惨(せいさん)な戦闘については、生還者による手記や小説、映画などで繰り返し描かれている。敗戦後は長く米軍が占領し、1968年にようやく返還され、その後は全島が自衛隊の基地となった。一般人の渡島は厳しく制限されており、島出身者でさえ自由に渡ることはできない。本連載で繰り返し伝えてきたように、いまだ戦没者の遺体、遺骨1万体以上が行方不明のままだ。第二次世界大戦に関心のある人にはよく知られている島ながら、戦前にそこで営まれていた生活についてはあまり知られていない。今回は戦前に生まれ育った元島民の証言から、往事の硫黄島を見てみよう。

「裕福な生活でした」

 福島県大玉村。安達太良山を見上げる自宅で、齋藤信治さん(85)はおよそ1300キロ離れた常夏の島・硫黄島での生活を振り返ってくれた。「裕福な生活でしたよ。食べ物、水、着るもの。いろんな面で豊かでした」。明治期、仙台市で警察官をしていた祖父の栄五郎さんが小笠原諸島の母島に渡った。そこで信治さんの父、利男さんが誕生。さらに硫黄島に渡り、開拓と農業に従事した。信治さんは1936(昭和11)年1月19日、硫黄島で生まれた。

 「おやじにおんぶされて、泳ぎを覚えました」。自然豊かな島で、信治少年はすくすくと育った。普段の生活では半袖シャツか、ランニングシャツに、半ズボン姿。「学校にも裸足で行ってたんですよ」。靴を履き、長ズボンにシャツを着るのは学校の式典などハレの行事の時だけだった。運動が盛んだった。「相撲にベースボール。テニスに縄跳び、騎馬戦」。正月にはたこ揚げと羽根つき、餅つき。トリモチでメジロを捕り、鳥かごで飼っていた。

 食生活も豊かだった。「学校から帰ってくると、家の畑があって、そこへ行ってサトウキビを鎌で切って吸うんですよ。おやつです。それを吸いながら海に行って魚を釣った。雨が降ると岩場にカニがたくさん出るんですよ。それを取って餌にしたんです。釣れたのはベタ、アジ。おやじはギス。今のようなリールはないので、物干しみたいなさおで。刺し身にするとうまいんですよ。私たち子どもは、それより魚がかかってさおが曲がるのが楽しかったんですけどね。肉ですか? うちは牛も豚も鳥もみんな飼っていましたからね。野菜も何でもたくさん取れたね。取れなかったものを言った方が早い。土が豊かでした」。バナナやマンゴー、パパイア、ヤシ、オレンジなど果物もふんだんに取れた。主食は白米。島で米は栽培していなかったが、内地から運ばれてきた。

若い兵士との親交

 齋藤さんは6人きょうだいの次男。大家族ながら電気も水道もなかった。「でもね、住めば都。電灯がなくてもランプがあった。水は生活の知恵で、コンクリート製のタンクを作った。2~4メートル四方で、深さは3メートルから4メートルほどあった。そのタンクがいくつもあった。硫黄島はスコールのように雨が降りました。ボウフラ一つわかない。水で不自由したことはありませんでしたよ」。まきでたいた風呂も、内地と変わらず楽しめた。

 齋藤さんが生まれた翌年には日中戦争が始まり、その翌々年の39年にはナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻したのをきっかけに、第二次世界大戦が始まっていた。しかし硫黄島では、平和そのものの生活が続いていた。41年12月に対米英戦開戦後も、島では穏やかな日常が続いた。「父が兵隊さんと親しくしていました。数人が父に釣りを教わっていましたね、私は兵隊さんのテントに遊びに行ったんですよ。いろんな所から来ている人たち。弁当もらったり、カンパンもらったり。泊めてもらったこともあるんですよ。毛布かぶって寝てね。毛布が珍しくてね(笑い)。若い兵隊さんが多くて、内地の話をしてくれまし…

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