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竹中工務店/7 明治維新の政策に痛手=広岩近広

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竹中独自の「大隅流」の祭式で用いる儀式道具 拡大
竹中独自の「大隅流」の祭式で用いる儀式道具

 竹中家の当主たちは江戸時代、門外不出の建築様式「大隅流」を継承し、大型の神社仏閣を手がけてきた。竹中は宮大工の棟梁(とうりょう)として、世評が高かった。学問、芸能、商業など各種の職業に携わる名古屋の著名人が並んだ職人番付「金府繁栄風流選」(1836=天保7=年ごろ)に、11代藤右衛門の名前が「神社 大工藤右衛門」と書きこまれている。

 その藤右衛門にとって、明治維新の政策は大きな痛手となった。王政復古の大号令(1868年)に始まる維新政府は、祭政一致の立場から神社神道の普及を進めた。神仏分離令が布告されると、廃仏毀釈(きしゃく)運動が全国的に広まる。

 幕藩体制の一環だった寺院の勢力が削がれると、竹中をはじめ宮大工の立場は一変した。曽根秀一・静岡文化芸術大准教授の著書「老舗企業の存続メカニズム―宮大工企業のビジネスシステム」(中央経済社)によると、神仏分離と廃仏のほかに修験道の廃止、土地をお上に返納する境内付属地の上地(じょうち)や無檀(むだん)無住寺院の廃寺令が加わり、1868年から1878年ごろまでの廃寺数は2万5000寺に及んだという。また版籍奉還(1869年)により、竹中家の雇用主だった尾張藩は消滅している。同書から引きたい。

 <廃仏毀釈や廃藩置県等は、明治維新まで宮大工企業が恩恵にあずかっていた特権を失わせるだけでなく、宮大工市場を著しく縮小させた。(略)竹中家が江戸時代に手がけた寺社建築をみると、現存している限りではあるが神社より仏閣を多く造営している。このことは竹中家においても廃仏毀釈の影響が少なからずあったと考えられる>

 1873(明治6)年、名古屋鎮台の兵営工事が持ちあがった。鎮台は陸軍の常備部隊で、地域の反乱鎮圧と治安維持を主な目的とした。1871年に東京、大阪、鎮西(九州)、東北に置き、2年後に徴兵令が公布されると、名古屋と広島にも設置が決まる。

「藤右衛門」の名前が右下に見られる、名古屋の職人番付「金府繁栄風流選」 拡大
「藤右衛門」の名前が右下に見られる、名古屋の職人番付「金府繁栄風流選」

 だが名古屋には、急を要する大仕事を一手に引き受けられる建設業者は見当たらなかった。竹中をはじめ「三棟梁」と呼ばれた御三家は、仏寺と神社を主業にしてきた。だから竹中にしても、<洋風まがいの大建築には手が出ないようであった>(社史)という。

 日本に西欧風の建築が建ち始めたのは慶応元年の1865年ごろからで、これらの建築の多くは官庁やキリスト教関係であって、一般の民需とは程遠かった。いずれにせよ、名古屋を拠点にしていた竹中は、洋風建築に関するかぎり、地方の小業者にすぎなかった。そう明記した社史は、名古屋鎮台の兵営工事を請け負った経緯を、次のように説明している。

 <半ば強制的に押しつけられたのが竹中であった。しかし、一面から考えると、洋風建築が今後の課題であることは言うまでもない時代であった。当時39歳と22歳の父子は、従来の象牙の塔から抜け出して思いきり働いてみたい意欲に燃えたであろうことも、この難工事を引き受けさせた大きな要因であったにちがいない>

 ここに登場する竹中の父子は、11代藤右衛門と12代藤五郎である。

 (敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。次回は2月27日に掲載予定)

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