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香原斗志「イタリア・オペラ名歌手カタログ」

オペラ評論家の香原斗志さんが、往年の名歌手から現在活躍する気鋭の若手までイタリアのオペラ歌手を毎回1人取り上げ、魅力をつづります。

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香原斗志「イタリア・オペラ名歌手カタログ」

<第13回> チェチーリア・バルトリ

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アリオダンテにふんするバルトリ=2017年、ザルツブルク音楽祭 (C) SF/MonikaRittershaus 拡大
アリオダンテにふんするバルトリ=2017年、ザルツブルク音楽祭 (C) SF/MonikaRittershaus

ロッシーニとバロックの復興を先導した天才的お手本

 大歌手が多く存在した1950~60年代をオペラの黄金時代と呼ぶ人がいる。それは一面では当たっているが、むしろいまのほうが黄金時代だと思える面もある。特に、バロックからロッシーニまでの「ベルカント」を愛する者にとっては、作品が再発見され、演奏法をふくめて復興され、舞台を鑑賞できるようになった昨今は、黄金時代と呼ぶに不足がない。

 ロッシーニの場合、1979年から全集版が刊行され、80年にペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバル(ROF)が始まり、ROFでは研究と教育と実践が一体となって、ロッシーニのオペラの復興が図られた。その結果、ロッシーニの演奏は大きく変わり、音楽のみずみずしさや、弾けるような運動性が再現され、この作曲家が1810~20年代のヨーロッパを文化的に「征服」した理由が伝わるようになった。

 この流れを歌唱面でリードしたのは、まぎれもなくバルトリであった。ロッシーニを歌うために必要なのは、18世紀までに確立された歌唱法である。当時の声楽教師らが残した理論書をひもとくと、そのころ求められた歌唱水準の高さに驚かされる。フォルテとピアノの間を絶え間なく往来しつつ、むらのない響きをつくり、なめらかなレガートを聴かせる。音を引き延ばしながら漸増し減衰させるメッサ・ディ・ヴォーチェは必須で、言葉の意味に合わせてニュアンスを加えながら、アジリタやトリルなどの装飾を完璧にこなす。そうしたテクニックは19世紀後半から失われ、20世紀には絶えていたが、1980~90年代、バルトリの歌唱のなかに手本のように再現されたのである。

 イタリアらしい温かみを宿したまま、荒い粒子はすべて濾過(ろか)して練り上げられ、まっすぐのフレーズにも驚くほどの色彩と陰影が加わる声。それは、ひとたび小さな音符がぎっしりと並ぶパッセージにいたると、フリースタイル・スキーの金メダリストでもここまでは、と思うほど、声は圧倒的な速度で、しかも鋭く細やかに回転し、跳躍する。すると、並みの歌手が歌っても到底伝わらない曲の真価が、聴く人の耳に圧倒的に印象づけられる。全盛期のバルトリの「ラ・チェネレントラ」をチューリッヒで鑑賞したとき、フィナーレのロンドを聴きながら体が震え、普通に呼吸ができるまでに時間がかかったのが忘れられない。

 18世紀に築き上げられたこれらの技術が、バロック・オペラと共有できるのは言うまでもない。だから、バルトリが多くのバロック・オペラの復活に貢献したのは、自然なことだった。2017年のザルツブルク音楽祭でヘンデル「アリオダンテ」を鑑賞したが、初演ではアルト・カストラートが歌ったズボン役のタイトルロールに扮(ふん)したバルトリは、正確無比のリズムと急速な声の回転で、ほかの歌手を寄せつけない。そこに微妙なニュアンスを加えて感情の高ぶりと移ろいを映し出した。

 ロッシーニとバロック。道標がなかった道筋に決定的な道標を示し、オペラの歴史を先導した歌手である。

筆者プロフィル

 香原斗志(かはら・とし) 音楽評論家、オペラ評論家。イタリア・オペラなど声楽作品を中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や公演プログラム、研究紀要、CDのライナーノーツなどに原稿を執筆。声の正確な分析と解説に定評がある。著書に「イタリアを旅する会話」(三修社)、共著に「イタリア文化事典」(丸善出版)。「イタリア・オペラを疑え!」がアルテスパブリッシングより好評発売中。ファッション・カルチャー誌「GQ japan」web版に「オペラは男と女の教科書だ」を連載中。

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