連載

オーケストラ変革の半世紀 ベートーヴェン生誕200年から

ベートーヴェン生誕200年から250年、日本のオーケストラはこの半世紀で大きく変貌しました。当時と今をさまざまな視点で描きます。

連載一覧

オーケストラ変革の半世紀 ベートーヴェン生誕200年から

ベーレンライター版の普及 ピリオド奏法の浸透

  • ブックマーク
  • メール
  • 印刷
2020年末、ピリオドの要素を取り入れながら現代感覚あふれる「第9」公演を行ったノットと東響(合唱の配置はコロナ禍の感染対策によるもの) (C)T.TairadateTSO
2020年末、ピリオドの要素を取り入れながら現代感覚あふれる「第9」公演を行ったノットと東響(合唱の配置はコロナ禍の感染対策によるもの) (C)T.TairadateTSO

 昨年はベートーヴェンの生誕250年の記念イヤーであった。生誕200年の1970年からの50年間でオーケストラの演奏スタイルは大きく変貌した。何がどう変わったのか? 日本国内での変化に焦点を当てて、エポックメイキングとなった出来事を振り返りながらクローズアップしていく。その1回目はベートーヴェンをはじめとする古典派作品演奏における批判校訂版楽譜の刊行と普及、そして作曲家在世当時の楽器や演奏法を再現するピリオド(時代)楽団・奏法の登場。さらにモダン・オーケストラにおけるそれらの要素を取り入れた演奏スタイルの確立について。

 2020年12月、東京で開催された年末恒例のベートーヴェンの交響曲第9番の演奏会。筆者が取材した5公演のうち実に4公演がドイツの音楽出版社であるベーレンライターが刊行している批判校訂版、いわゆるベーレンライター版を採用しての演奏。こうした傾向は一昨年も同じであった。ベートーヴェンの交響曲の演奏に際してベーレンライターが主流になったといえよう。ヨーロッパにおいてはその傾向はより顕著である。20世紀のスタンダードであったブライトコップフ社の旧版を使っている指揮者やオーケストラは少数派となっている(旧版を使用しているのはティーレマンらが挙げられる)。

 また、演奏においても弦楽器奏者の人数を少なくし、アーティキュレーション(音と音のつなげ方)やアクセントの付け方、テンポ設定などを20世紀から慣習的に続けてきたやり方を見直すなど、ピリオドの奏法を参考にその一部を取り入れるスタイルが一般化している。言い換えれば新たに発刊された批判校訂版の譜面を使い、作曲家在世当時のスタイルを参考に演奏を組み立てていくやり方が、この50年の間に当たり前のことになったのである。

 日本国内において演奏者の側だけではなく広く聴衆も巻き込んだ形でこうした潮流を決定づけた出来事は2001年10月、サントリーホールで行われたサイモン・ラトル指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるベートーヴェン交響曲ツィクルスであったと筆者は考える。

2001年のラトル&ウィーン・フィル来日時のチラシとプログラム 拡大
2001年のラトル&ウィーン・フィル来日時のチラシとプログラム

 もちろん、それ以前も国内外のピリオド演奏団体や一部の指揮者がこうしたスタイルによる演奏を行っていた。また、海外におけるメジャーなモダン・オケというくくりでみるとクラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルがいち早くベーレンライター版を採用。1996年4月にザルツブルク・イースター音楽祭でベートーヴェンの交響曲第9番を演奏している。後日、このライブ録音がCD化されると、国内の音楽評論家が「第1楽章第2主題の木管の音程が間違ったままリリースされている」と指摘し話題になった。実はこれ、ベーレンライター版の指定に沿ってブライトコップフ旧版より高い音程を吹いていたのである。つまり日本国内では専門家でも分からないほど、特殊なケースとして受け止められたことを表すエピソードといえる(真偽は定かではない)。

 しかし、2001年のラトル指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン・ツィクルスは日本の聴衆にそれが特殊なケースではないことを強く印象付けた。なぜなら19世紀末から20世紀にかけて積み重ねられてきた演奏の伝統を大切に守ってきたとされるウィーン・フィルが、そのレパートリーの中核であるベートーヴェンで新たなスタイルを取り入れた演奏を鮮やかに繰り広げたことのインパクトは大きかったからだ。技術的水準の高いウィーン・フィルが演奏することで、これまで厚いハーモニーに隠れて気付かなかった対旋律の重要性やパート間の対話などが、クッキリと浮かび上がり作品の魅力がより一層増したように感じられた。多くの聴衆がそれまで知らなかったベートーヴェンの別の一面を発見したと感じたに違いない。

 そしてウィーン・フィルはその5年後の2006年にも古楽演奏のパイオニアであるニコラウス・アーノンクールとともに来日し、ベートーヴェンやモーツァルトなどで再びピリオドの要素を大幅に取り入れた演奏を披露した。これらはサントリーホールが主催する「ウィーン・フィル ウィーク イン ジャパン」における公演なのだが、当時、同ホールの総支配人を務めていた原武氏(元N響副理事長)によると「指揮者の選定はすべてウィーン・フィル側が指定してきた通りに行われる。従ってそれ(ピリオドの要素を取り入れた演奏を行うスタイル)が世界の大きな潮流になったと自然に受け止めていた」と語る。

 その前年の秋、筆者は京都賞授賞式のため来日したアーノンクールを取材している。彼はピリオドの要素を取り入れた演奏について「作曲家在世当時のスタイルを寸分たがわず再現するなど技術的なことにこだわり過ぎるのは意味のないこと。私が理想とするのは博物館に骨董(こっとう)品を見に行くのとは一線を画する演奏である」と語り、モダン・スタイルとの融合の重要性を強調していた。そんな彼の理想は10年以上が経過したベートーヴェン生誕250年の今の日本でも現実のものとなっている。

 最後にベーレンライター版について簡単に説明しておこう。英国の音楽学者ジョナサン・デル・マーが中心となり、ベートーヴェンによる手書きのオリジナル譜面や初演当時のパート譜、現存するスケッチやメモ、演奏慣習などを総合的に勘案して従来の譜面において誤りと疑われる箇所を修正、あるいは修正すべき選択肢を示す等の形でドイツ・カッセルに本社を置く音楽出版社ベーレンライターによって90年代から順次発刊された新全集。ベートーヴェンによる手稿譜面はもともと乱暴なタッチで書かれていた上に書き直しなどが多かったため、出版に際しての写譜などの過程で多くのミスが生じたと考えられている。批判校訂版は資料の再検証を基にそれらを修正しているのだが、ペーレンライター社のほかにも従来のスタンダードであったブライトコップフ・ウント・ヘンテル社からも新たな版が発刊されるなど複数のパーションが存在する。

ベーレンライター社から刊行されたベートーヴェンの新全集 拡大
ベーレンライター社から刊行されたベートーヴェンの新全集

 ベーレンライター版を採用し、ピリオドの要素を取り入れた演奏を行う今年94歳の巨匠ヘルベルト・ブロムシュテットはNHK・Eテレのインタビュー(2016年12月6日放送)の中でベートーヴェンの演奏に関して「新しい楽譜が出版され、作曲家の〝意図〟を伝える多くの資料も見つかっています。音楽家は良心に従って原典に忠実であるべきです」と語っていた。現代における古典派作品の演奏はどうあるべきかを示す重要な言葉であろう。

筆者プロフィル

 宮嶋 極(みやじま きわみ) 毎日新聞グループホールディングス取締役、番組・映像制作会社である毎日映画社の代表取締役社長を務める傍ら音楽ジャーナリストとして活動。「クラシックナビ」における取材・執筆に加えて音楽専門誌での連載や公演プログラムへの寄稿、音楽専門チャンネルでの解説等も行っている。

あわせて読みたい

注目の特集