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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/8 名古屋鎮台工事を乗り越えて=広岩近広

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陸軍の要請に応じて竹中が請け負い、1874年に完工した名古屋鎮台 拡大
陸軍の要請に応じて竹中が請け負い、1874年に完工した名古屋鎮台

 明治の維新政府と陸軍は、名古屋鎮台の兵営工事を急いだ。1873(明治6)年に国民皆兵制を定めた徴兵令を公布するなど、軍国主義国家への道を突き進んでいた。名古屋鎮台の工事にも、問答無用の姿勢がうかがえる。

 <敷地は名古屋城本丸の東に接する二の丸で、尾張徳川家代々の居館のあったところである。その南半分が向屋敷と呼ばれて、馬場御殿や弓場御殿があり、これをめぐる庭園は数奇をこらしたものであった。それを惜しげもなく旧来の建物は直ちに撤去され、庭園は石組も池泉も無差別に一切が埋めつくされていった。土地の人達は、複雑な表情でこれを眺めたといわれる>(社史)

 竹中は工事の前に、現在の千葉県佐倉市まで赴いている。兵営内に造る兵舎を「西洋小屋」にするにあたり、当時唯一の実例として佐倉市にあった分営を見学した。こうして73年4月から翌年の11月にかけて、兵営8棟、番兵所4棟など合計30棟から成る洋風木造2階建ての建物が順次完工していった。

手動具が華やかだった当時の大工道具 拡大
手動具が華やかだった当時の大工道具

 竹中としては慣れない洋風工事のうえ、相手は鼻息の荒い陸軍である。毎日のように設計の変更や追加工事を課され、しかも物価や労働賃金が暴騰して、まさに「弱り目にたたり目」の苦境に立たされた。それでも竹中は、命じられるままに完成を急いだ。品質にこだわったのはいうまでもない。その結果、完成の暁には巨額の欠損となった。社史は経緯を、次のように述べている。

 <請負高10万余円に対して50%近い赤字は、竹中にとって容易ならぬものであった。一家の浮沈にも関するものであった。そこで、陸軍を相手に、設計変更、追加工事、物価、労銀の高騰を理由に提訴して争うこととなった。遂(つい)に、大審院(現在の最高裁判所)まで持ちこんだが、その結果は、敗訴の判決書一枚を得ただけであった>

 名古屋鎮台工事の欠損は、竹中家に重くのしかかった。屋敷を処分するだけでは足りず、得意先などに借り入れを頼んだ。<金借主 竹中藤右衛門><保証人 竹中藤五郎>とあるように、11代と12代の父子が前面に立って苦難に当たっている。

 家業の継続すら危ぶまれた竹中だが、応援や同情の声も寄せられた。強硬な陸軍を相手に、棟梁(とうりょう)精神に裏打ちされた建築職のプロとして筋を通した姿勢と気骨は、多くの人たちの支持を得ている。とりわけ三井財閥との絆から、新たな仕事の受注につながった。

 三井との縁は、名古屋鎮台の兵営工事に着工する前の72年に始まる。11代藤右衛門は三井家から、三井組(後の三井銀行)が名古屋に両替の店を開設するので適当な店舗用物件を紹介してほしい、と依頼された。藤右衛門は責任をもって繁華街に物件を選定し、その改築を引き受けている。三井との絆は、そうした不断の努力を重ねた信頼から生まれた。<当時の竹中当主11代藤右衛門は三井家から知遇を得ていたようである>(社史)

 名古屋鎮台工事から10年後の83(同16)年、この店舗が三井銀行名古屋出張所として新築されるとき、竹中は工事を受注した。新店舗は翌年に完成し、この後も竹中は三井から近代建築を請け負っている。三井からの厚い信頼は、竹中が民間建築工事に専念する大きな力となった。

 (敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。次回は3月6日に掲載予定)

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