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没後200年・伊能忠敬を歩く

2018年は伊能忠敬が没して200年。ゆかりの地を記者が訪ねました。

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没後200年・伊能忠敬を歩く

/30 北海道図にまつわる謎 間宮林蔵が全域測量説も

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襟裳岬付近の地図を重ね合わせると、岬の形状を明確にしている最終版の測線(外側)に対し、忠敬の第1次測量をもとにした測線(内側)は先端部を通っていない=画像は横溝高一氏提供
襟裳岬付近の地図を重ね合わせると、岬の形状を明確にしている最終版の測線(外側)に対し、忠敬の第1次測量をもとにした測線(内側)は先端部を通っていない=画像は横溝高一氏提供

 第1次測量で北海道に滞在中の1800年夏、二十歳の間宮林蔵と出会った伊能忠敬。7年後の07年10月、測量には欠かせない小方位盤2個を、下役を通じ5両で林蔵に譲ったという記述が忠敬の日記に残る。

 「ヲロシャ人狼藉(ろうぜき)の物語、間宮より伝言」と記述は続く。同年4月、択捉島をロシア船が襲撃、現地の林蔵らが奮戦するも敗走した様子が伝えられたのだろう。汚名をそそごうとロシア行きを志願した林蔵だったが、許可は下りず、08年に第1回樺太探検に向かう。忠敬から譲られた小方位盤はその際に携行したと思われる。

 以来約3年、二人の交流の記録はない。その間、忠敬は四国、九州へ測量に出向き、林蔵はユーラシア大陸に渡り、樺太が「離れ島」であることを発見する。久しぶりに林蔵の名が忠敬の日記に現れるのは11年5月19日。「朝より曇天。午前間宮林蔵」と記され、同年10月まで計8回、林蔵が忠敬と会っていることが分かっている。

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