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鎌田慧の「忘れ得ぬ言葉」

膨大な取材メモの中から、珠玉の一言を拾い上げる。社会問題を追い続けてきた反骨のルポライターが、これまでに出会い、感銘を受けた人々を振り返り、戦後史の一こまを切り取っていく。

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鎌田慧の「忘れ得ぬ言葉」

「私は、私自身の原因である」 寺山修司 /東京

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母不在の孤独が創作に

 どうして、寺山修司が自宅の中を案内してみせたのか、いまだに不思議である。2階のガランとした書斎らしい部屋の真ん中に大きな革張り、回転式の肘掛け椅子がひとつだけあって、まるで無人の舞台のようだった。まだ引っ越してきたばかりだったのだろうか。台所や風呂場もみせられたが妻の九条映子は、不在だった。

 東京都世田谷区下馬。東横線に乗って原稿を取りにいった。1967年の春だった。寺山31歳、ちいさな雑誌の編集者になっていたわたしは、29歳だった。ソ連の詩人、エフトゥシェンコが30歳で書いた「早すぎる自叙伝」が、日本でも評判になっていた。おなじ年頃の寺山修司にも書いてもらおうと考えた。予想通り彼は快諾した。その連載第1回の原稿を受け取りにいったのだ。

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