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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/9 兄は名古屋、弟は神戸を拠点=広岩近広

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 名古屋鎮台の兵営工事で大きな損害を被った竹中は、三井財閥から新規の仕事を受けながら立ち直りの兆しをつかんだ。1895(明治28)年には、三井名古屋製糸場の建築に着工し、2年かけて完成させた。

竹中が神戸で最初に取り組み、1900年に竣工(しゅんこう)した三井銀行小野浜倉庫 拡大
竹中が神戸で最初に取り組み、1900年に竣工(しゅんこう)した三井銀行小野浜倉庫

 <竹中が名古屋周辺で手掛けた最初の本格的な煉瓦(れんが)造りの建築だった。(略)日本の近代繊維工業の歴史にも貴重な建築であろう>(社史)

 さらに12代藤五郎は、1898(明治31)年秋に倉庫建設の引き合いを受ける。三井銀行が倉庫業を兼営することになり、神戸の小野浜(現在の神戸市中央区)に倉庫を建てることになった。小野浜地区は生田川の河口に位置し、日清戦争後から貿易の発展に伴う神戸築港計画で注目を浴びていた。

 三井の指名を受けて、藤五郎は名古屋から神戸に出向いて交渉を続けた。ところが、この間に軽微な負傷が破傷風に悪化して、藤五郎は1899年1月25日に永眠する。47歳だった。社史は次のように記している。

 <受注決定の報を知らずに急逝した12代も残念であったであろう。2月4日に、銀行から工事下命が伝えられたことは、三井家の故人に対する厚意のあらわれでもあろうと思われた>

 このとき11代藤右衛門は、健在とはいえ66歳を数えていた。竹中家は協議の結果、長男昇太郎が13代藤五郎を襲名し、名古屋にとどまって家業を継いだ。三井の倉庫を建設するため、神戸に派遣されることになったのが、次男の錬一(後の14代藤右衛門)である。錬一は昇太郎より4歳下で21歳だった。

 社史は昇太郎について、<祖父と父の膝下で、工匠の道にはげみ、絵図面はもとより、絵様唐草の彫り物にも秀でた才能があり、茶道にも熱心であった。既に藤沢の遊行寺本堂の造営では現地に常駐して、設計、施工の経験も積んでいた>と記し、続いて錬一に言及している。<兄と同様の修練を重ねつつも、別に海外貿易への志望を抱いていた。そのため、北海道開拓の事情を調査したり、朝鮮内地を行商しながら旅行して見聞を広めたりしていた。このような時の父の急逝であった。それに追いかけて小野浜倉庫が決定した>

 錬一は次男の気楽さから、家業にこだわらずに将来を模索していた。だが父の早世で、錬一の進路は決まった。つまるところ兄弟は、名古屋と神戸を拠点にして家業に励むことになる。二つの土地の違いを、社史はこう説明している。

 <名古屋には多くの優秀な別家があり、棟梁(とうりょう)があった。永年の得意先も多くは名古屋を中心にしていた。これに対して神戸は全く未墾の土地であった。その上、当時はまだまだ業者の縄張り争いがはげしく、顔が物を言う時代でもあった。大工、左官1人を得るにも困難が伴った>

 錬一は亡き父と三井とのつながりを知っていたので、使命の大きさを自覚して臨んだ。亡父の遺志を引き継ぐ気概に燃えてもいた。武士をルーツとする棟梁の血が、錬一をして駆り立てたのは想像に難くない。

神戸に赴く朝、竹中錬一が墓参した慶栄寺(名古屋市西区) 拡大
神戸に赴く朝、竹中錬一が墓参した慶栄寺(名古屋市西区)

 錬一は名古屋を離れる朝、慶栄寺(名古屋市西区)を訪ね、亡き父の墓標にぬかずいて別れを告げた。ちなみに慶栄寺は初代藤兵衛が造営している。

 この後、たった一人の棟梁、佐橋銀次郎を伴って、神戸へ向かう。この日は、ことのほか雪が降りしきっていた。

(敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。人名表記は常用漢字とした。次回は3月13日に掲載予定)

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