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常夏通信

その84 戦没者遺骨の戦後史(30) 日本人?の指摘を無視した厚労省

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シベリア抑留者の遺骨を厚生労働省が外国人のものと取り違えて持ち帰っていた問題についての野党合同ヒアリングで質疑を交わす議員たち(奥)と厚生労働省の担当者たち(手前)=国会内で2019年9月20日、川田雅浩撮影
シベリア抑留者の遺骨を厚生労働省が外国人のものと取り違えて持ち帰っていた問題についての野党合同ヒアリングで質疑を交わす議員たち(奥)と厚生労働省の担当者たち(手前)=国会内で2019年9月20日、川田雅浩撮影

 本連載で見てきた通り、日本政府は独立を回復した1952年、海外戦没者の遺骨収容を始めた。厚生労働省によれば、戦没者240万人のうちおよそ128万人分の遺骨が収容された。政府による派遣団が収容したのは34万体。大半は遺族や戦友などが持ち帰ったものだ。「本当にすべて日本人なのか。外国人の遺骨も収容してきたのでは?」という疑念は、遺骨収容に関わる人たちの間では長くあった。その疑いが事実だと明らかになったのは2019年夏。ロシア・シベリアにおける遺骨取り違え事件である。

「ユーラシア大陸抑留」で亡くなった6万人

 第二次世界大戦が終わった後、ソ連は旧満州(現中国東北部)などにいた日本人およそ60万人を拘束し、自国領などに移送した。最長11年間、拘束した国際法違反の行動は、「シベリア抑留」として知られる。実際は極東のシベリアだけでなく、広大なソ連領とモンゴルに及び、「ユーラシア大陸抑留」ともいうべき蛮行であった。極寒と重労働、飢えによって6万人が亡くなったとされる。

 長い冷戦の時代、ソ連は東側諸国の親玉であった。日本はアメリカを盟主とする西側諸国の一員であり、対立するソ連領内で日本人犠牲者の遺骨を捜すどころか、まともな調査すらできなかった。事態が動いたのは1991年。冷戦が終わり、ようやく遺骨収容ができるようになった。以来2万体以上が収容され、日本に移されている。「帰還した」と書けないのは、2万体には日本人ではない遺骨が多数含まれているからだ。

遺骨取り違えを発表せず

 遺骨の取り違えが明らかになったのは、NHKの特ダネによってだった。14年に厚労省がロシアで収容した16体の遺骨について専門家がDNA鑑定を実施。「判別できた14の遺骨はすべて日本人ではない」という鑑定結果を18年の非公式会議の場で厚労省に伝えた。しかし厚労省は「遺骨取り違え」の可能性があることを外部に発表しなかった。さらに00年に収容された70体の遺骨についても、専門家が17年に「日本人ではないのではないか」と指摘していたが、これも厚労省は発表しなかった。

 遺骨のDNA鑑定が始まったのは03年。法医学の専門家らによる「DNA鑑定人会議」が身元特定に当たる。収容した遺骨からDNAを採取。遺族と思われる人からも採取し、突き合わせる。遺骨だけでなく身元の推定につながる資料(印鑑や名前が書かれた遺品、埋葬記録など)がなければDNA鑑定を行わないこととしたため、そうした資料が見つかりにくい南方では、せっかく収容された遺骨が鑑定されず「無縁仏」となるケースがほとんどだった。

 DNA鑑定は万能ではない。赤の他人の遺骨を、戦没者の遺族に渡すことがあってはならない。だから遺品などの資料で確度を高めるのは妥当だろう。また「遺骨をDNA鑑定すれば身元が分かる」などといった過剰な期待を、遺族らに抱かせてしまうかもしれない。厚労省が鑑定実施に慎重を期した理由は分かる。

 一方、シベリア抑留の場合は埋葬記録が比較的残っていることから、鑑定が進んだ。これまでに1100体以上の身元が特定されている。南方を見ると、沖縄はこれまでにわずか6体。硫黄島は4体にとどまる。シベリアの成果が突出していることは明らかだ。しかし、「取り違え」は起きた。

 遺骨の形状だけで人種を特定することは、素人には不可能である。熟練の人類学者が研究室の環境…

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