その84 戦没者遺骨の戦後史(30) 日本人?の指摘を無視した厚労省
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本連載で見てきた通り、日本政府は独立を回復した1952年、海外戦没者の遺骨収容を始めた。厚生労働省によれば、戦没者240万人のうちおよそ128万人分の遺骨が収容された。政府による派遣団が収容したのは34万体。大半は遺族や戦友などが持ち帰ったものだ。「本当にすべて日本人なのか。外国人の遺骨も収容してきたのでは?」という疑念は、遺骨収容に関わる人たちの間では長くあった。その疑いが事実だと明らかになったのは2019年夏。ロシア・シベリアにおける遺骨取り違え事件である。
「ユーラシア大陸抑留」で亡くなった6万人
第二次世界大戦が終わった後、ソ連は旧満州(現中国東北部)などにいた日本人およそ60万人を拘束し、自国領などに移送した。最長11年間、拘束した国際法違反の行動は、「シベリア抑留」として知られる。実際は極東のシベリアだけでなく、広大なソ連領とモンゴルに及び、「ユーラシア大陸抑留」ともいうべき蛮行であった。極寒と重労働、飢えによって6万人が亡くなったとされる。
長い冷戦の時代、ソ連は東側諸国の親玉であった。日本はアメリカを盟主とする西側諸国の一員であり、対立するソ連領内で日本人犠牲者の遺骨を捜すどころか、まともな調査すらできなかった。事態が動いたのは1991年。冷戦が終わり、ようやく遺骨収容ができるようになった。以来2万体以上が収容され、日本に移されている。「帰還した」と書けないのは、2万体には日本人ではない遺骨が多数含まれているからだ。
遺骨取り違えを発表せず
遺骨の取り違えが明らかになったのは、NHKの特ダネによってだった。14年に厚労省がロシアで収容した16体の遺骨について専門家がDNA鑑定を実施。「判別できた14の遺骨はすべて日本人ではない」という鑑定結果を18年の非公式会議の場で厚労省に伝えた。しかし厚労省は「遺骨取り違え」の可能性があることを外部に発表しなかった。さらに00年に収容された70体の遺骨についても、専門家が17年に「日本人ではないのではないか」と指摘していたが、これも厚労省は発表しなかった。
遺骨のDNA鑑定が始まったのは03年。法医学の専門家らによる「DNA鑑定人会議」が身元特定に当たる。収容した遺骨からDNAを採取。遺族と思われる人からも採取し、突き合わせる。遺骨だけでなく身元の推定につながる資料(印鑑や名前が書かれた遺品、埋葬記録など)がなければDNA鑑定を行わないこととしたため、そうした資料が見つかりにくい南方では、せっかく収容された遺骨が鑑定されず「無縁仏」となるケースがほとんどだった。
DNA鑑定は万能ではない。赤の他人の遺骨を、戦没者の遺族に渡すことがあってはならない。だから遺品などの資料で確度を高めるのは妥当だろう。また「遺骨をDNA鑑定すれば身元が分かる」などといった過剰な期待を、遺族らに抱かせてしまうかもしれない。厚労省が鑑定実施に慎重を期した理由は分かる。
一方、シベリア抑留の場合は埋葬記録が比較的残っていることから、鑑定が進んだ。これまでに1100体以上の身元が特定されている。南方を見ると、沖縄はこれまでにわずか6体。硫黄島は4体にとどまる。シベリアの成果が突出していることは明らかだ。しかし、「取り違え」は起きた。
遺骨の形状だけで人種を特定することは、素人には不可能である。熟練の人類学者が研究室の環境…
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