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前回、16歳の渋沢栄一が岡部陣屋で代官から求められた「御用金(ごようきん)」。一方的に調達承諾を迫られた金銭の性質に着目すると、当時の社会背景が浮かび上がる。
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埼玉県深谷市の郷土史家、奥田豊さん(73)は、嘲弄(ちょうろう)された栄一の怒りはもっともだとしつつ「調達に黙って応じた人たちの方が当時としては当たり前だった。代官は『今までは何か言われたことなどなかったのに』と栄一に腹を立てたでしょうね」と苦笑する。
「農家だった『中の家(なかんち)』などに対しては当時、畑の作物について現金で納める年貢はあったが、藍玉製造販売に対する営業税のようなものは存在しなかった」と奥田さんは指摘する。「岡部藩は姫の輿入(こしい)れなどにかこつけて不定期に、富裕な名主らに対し、特権商人に対して課していた冥加金などと同じ感覚で、御用金名目で大金を出させていたのではないか」と推測する。
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