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毎日新聞朝刊1面の看板コラム「余録」。▲で段落を区切り、日々の出来事・ニュースを多彩に切り取ります。

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「東の風が吹きはじめたね、ワトスン」…

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 「東の風が吹きはじめたね、ワトスン」。ホームズの語りかけに、「東からじゃないだろう。とても暖かいよ」と謎めいた会話が交わされる。コナン・ドイルの短編「シャーロック・ホームズ最後の挨拶(あいさつ)」(創元推理文庫)の終幕だ▲北海を越えてくる東の風は英国に冷気をもたらす。ワトスンは文字通り受け取ったが、ホームズは大陸で始まろうとしていた第一次大戦を東の風にたとえたというわけだ。こちらの東の風も災厄をもたらした▲10年前の東日本大震災に伴う東京電力福島第1原発事故。戯曲「東の風が吹くとき」は、東風が運んできた放射能で土壌を汚染された農村を舞台に、故郷に残った酪農家の老夫婦らを描く。タイトルには本来、春の芽吹きを運んでくるはずの東風への思いが重なる▲劇団青年座に所属する作者の高木達(とおる)さんも、故郷の福島県いわき市で津波に遭った。「原発事故を目の前に見て演劇人として何が発信できるか」。新聞で読んだ飯舘村の夫婦を自ら取材し、物語を紡いだ▲2013年にUターン。地元でさまざま見聞きした作者ならではの視点で、原発を巡る年代記3作品を8年かけて書き継いだ。昨年書いた「でんでら野仮設診療所日記」は復興の陰で取り残される人々の痛切な声を映す▲先月、「原発事故三部作」として戯曲集(晩成書房)を出した。「全国のいろいろな劇団に上演してほしい」と高木さん。言葉として発せられることで福島の記憶が共有され、つながっていく。演劇の力に願いを託す。

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