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東日本大震災

2011年3月11日に発生した東日本大震災。復興の様子や課題、人々の移ろいを取り上げます。

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神様、友達を返して 大川小児童、もがいた10年

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強風が吹き抜ける旧大川小校舎の前でたたずむ武山詩織さん=宮城県石巻市で2月11日、和田大典撮影
強風が吹き抜ける旧大川小校舎の前でたたずむ武山詩織さん=宮城県石巻市で2月11日、和田大典撮影

 新型コロナウイルスが猛威を振るっていた1月10日、宮城県内では多くの自治体が感染防止策を講じて成人式を開き、晴れ着姿の若者たちはマスクをつけて友人との再会を喜んだ。しかし、今年新成人となった武山詩織さん(20)はその日も、いつもの週末と変わらず、スーパーとコンビニエンスストアのアルバイトをはしごして過ごした。

 東日本大震災発生後に家族で引っ越した登米(とめ)市が式典を1年延期したこともあるが、欠席は前から決めていた。「晴れ着はお金がかかるし、登米の友達も式に行かないって言うので」。震災前に住んでいた石巻市も10日に開催したが、足を運ぶことは考えなかった。

 母校の石巻市立大川小学校は小学4年生の時に巨大津波に襲われた。助かった同級生5人のうち1人はすぐ転校し、詩織さんは登米市から2年間通い、4人で卒業した。中学は一人、登米市の学校に進んだ。

 詩織さんと出会ったのは2011年4月、最初の月命日が過ぎた頃だった。

旧大川小校舎
旧大川小校舎

 発生3日後に大川地区にたどり着いたが、大川小近くを流れる北上川の堤防が津波で壊され、先に進めなかった。舟で川岸に戻ってきた夫婦が、小学3年の次男が「見つかった」と静かに口を開き「あの場所では遺体が見つかるだけいい方です」と告げた。全校児童108人のうち74人と教職員10人が犠牲になった大川小の取材の始まりだった。

 震災から1カ月後。行方不明の子らを捜す親たちの後を言葉もなくついて回った。「あの日学校で何があったのか」。遺族は情報を求めていたが生存者は限られる。日没前、地域の集会所を訪れた。大川小を津波が襲う直前、娘を迎えに行った母親がいると住民に聞いていた。用件を伝えると、母の背にまとわりついて少女も出てきた。当時10歳の詩織さんだった。

 母親が「地震の時、教室で歌っていたんだよね」と語り掛けると、詩織さんは当時の様子を話し出した。母にじゃれつき、小さく笑い声を上げるあどけない少女を見て、これから襲う喪失の痛みが、せめて緩やかであるようにと祈った。

 だが、奥底にある悲しみを分かっていなかった。少女がその頃「友達がいない。神様助けて…」などと記していたことを後に知った。「あの日」から10年。教室にいた友のほとんどが姿を消し、生と死が反転したような世界で、日常を取り戻そうと懸命にもがいていた。

児童の歌声、悲鳴に

 東日本大震災が発生した2011年3月、宮城県石巻市立大川小学校の4年生だった児童とその保護者たちの心には、忘れられない「あの日」が二つ刻まれている。一つは巨大津波が学校を襲った3月11日。もう一つはその9日前。あの日、歌いきれなかった歌がある。

 今から10年前の3月2日、大川小2階の4年生教室には児童18人の母親たちの姿があった。児童たちは順番に前に出て母親と向かい合い、書いてきた手紙を読み上げていく。まだ幼さの残る声。普段は照れくさくて言えない胸の内が、言葉にした瞬間あふれ出す。「お母さん、産んでくれてありがとう」「これからもずっと一緒にいてね」。この日は児童が10年間育ててくれた感謝を伝える「2分の1成人式」だった。手紙を読む子も母親も、周りのみんなもこらえきれず涙した。

 その日は時間が押し、児童たちは練習してきた合唱を披露できなかった。人気バンド「いきものがかり」の「ありがとう」。担任の佐々木芳樹教諭(当時27歳)が「CDに録音して、家族に渡そう」と提案した。

 録音日は、3月11日の帰りの会。♪ありがとうって伝えたくて――。教室に合唱がこだまし始めて3分余り。時計の針は午後2時46分を回った。

 「歌の1番が終わり、2番にいかないくらいだったかな」。地震から約1カ月後、避難先の集会所で初めて会った、当時10歳の武山詩織さん(20)はそう話した。激しい揺れで歌声は悲鳴に変わり、校内は停電した。詩織さんらは机の下に潜り、教員らの指示で教室から階段を下りて外へ走った。「図書室にあった水槽の水がこぼれてた」。上靴のまま校庭に避難し、点呼が始まった。「揺れが大きくて、怖くて泣いている子もいた」「ママのことしか考えてなかった。家がつぶれてんじゃないかとか」「怖くて友達とくっついてた」。当時の取材ノートに詩織さんの言葉が並ぶ。

 母の久美さん(48)の記憶では、車で学校に着いたのは午後3時25分ごろ。駆け寄ってきた詩織さんに「どうする? みんなと一緒に待つ?」と尋ねると「怖いから帰りたい」と答え、一緒に車に乗り込んだ。午後3時半過ぎだったか。学校よりやや標高が高い新北上大橋のたもとで北上川の水が堤防を越えてザブザブとあふれる光景が見え、車のハンドルを高台へと切った。大川小に残された三つの時計は3時37分で止まっている。

 地震の直後、東京から車で東北に向かった私は、福島県相馬市で取材後、3月13日に仙台支局に入った。被害状況がつかめない沿岸部へ手分けして向かい、偶然たどり着いたのが大川地区だった。大川小3年の次男を亡くした夫婦は「学校の目の前に山があるのに、なぜ逃げなかったのか」と学校の対応に何度も疑問を投げ掛けた。他の遺族とも引き合わせてくれ、少しずつ関係者を捜した。詩織さんや周辺住民、発生当日は不在だった校長らの証言を同僚記者と集め、津波が襲う直前の校庭の様子を4月に記事にした。震災3カ月目に検証記事も書いたが、遺族の心が発する「なぜ」に答えられた気はしなかった。そして、助かった児童たちのこれからが気になった。

「あの日」笑顔で隠し

 11年8月、国際宇宙ステーション(ISS)にいた宇宙飛行士と交信する毎日新聞主催のイベントがあり、大川小の児童らも参加してくれることになった。当時、私は宮崎支局に異動しており、宮城県を訪れたのは約3カ月ぶりだったが、引率係としてあいさつすると、詩織さんは「覚えてるよ」と声を掛けてくれた。

震災発生半年の頃、間借り先の校舎で談笑しながら給食を食べる詩織さん=宮城県石巻市の飯野川第一小(当時)で2011年9月12日、百武信幸撮影
震災発生半年の頃、間借り先の校舎で談笑しながら給食を食べる詩織さん=宮城県石巻市の飯野川第一小(当時)で2011年9月12日、百武信幸撮影

 イベントが縁で、取材をシャットアウトしていた大川小の間借り先の校舎にも何度か入った。学校は震災1カ月が過ぎた4月21日に市内の飯野川第一小(当時)の2階を間借りし、新入生を含む全校児童22人で授業を再開していた。9月、給食の時間に訪れると、先生たちに「これしかないんですよ」と窮状を訴えられた。給食センターが被災し、おかずはわずか2品ほど。それでも詩織さんらは楽しそうに昼食の時間を過ごしていた。児童たちは月命日に手紙や歌など、それぞれの表現できる形で亡き友や先生に思いを伝えていると知った。そうして、突然姿の見えなくなった友や先生の居場所を少しずつ心の中に作っているのだろうと受け止めた。

 仙台支局への赴任が決まった14年2月、報告をしに詩織さんの元を訪ねた。宮城県登米(とめ)市のアパートで、母の久美さん、新たに家族に加わった1歳2カ月の裕奈ちゃんと父の4人で暮らしていた。中学1年になった詩織さんは少しお姉さんの雰囲気をまとい、それまでの日々を快活に語った。小学校の卒業式は、たった4人の卒業生で「別れの言葉」を分担し、覚えるのが大変だったこと。登米市の中学は小中一貫校で、友達の輪に入れるか心配だったが、互いの家で遊ぶ友もできたこと。吹奏楽部でトロンボーンを吹いていること――。久美さんも「妹の面倒をよく見てくれる」と頼りにしていた。

 中学に入った年の9月。詩織さんは母に内緒で「2分の1成人式」の映像を見たという。9月は担任だった佐々木教諭の誕生月。津波で亡くなった先生の声が急に聞きたくなった。映像にはあの日のままの友の姿があり、カメラ係で映らない先生の声も聞こえた。「もう3年、早いな。それだけ会っていない実感がないし、よく会わないで耐えられるなって思う」と詩織さんは言った。通学用のかばんには、震災前に桜の木の下で撮った4年生の集合写真を入れていつも持ち歩いていると教えてくれた。

 後日、久美さんにメッセージを送ると、詩織さんが絵文字を添えて返事をくれた。「いま大切な宝物は?」と尋ねると「友達ですね」。理由を質問すると、今度は久美さんから画像が送られてきた。震災直後の3~4月ごろ、詩織さんの祖母が見つけ、久美さんが大切に保管する詩織さんの「手紙」だった。

武山詩織さんが東日本大震災発生直後の2011年3~4月ごろ、チラシの裏に書いた「手紙」。祖母が見つけ、母久美さんが今も大切にしまっている=武山久美さん提供
武山詩織さんが東日本大震災発生直後の2011年3~4月ごろ、チラシの裏に書いた「手紙」。祖母が見つけ、母久美さんが今も大切にしまっている=武山久美さん提供

 チラシの裏に書かれた文章は「だれかへ」という書き出しで始まる。

 <私これからどうしよう。友達がいない。親友がいない。神様助けて…。まえみた世界にもどりますように>

 無事だった友との再会すらままならぬ時期に書かれたものだろう。笑顔の奥に隠した、詩織さんの切なる叫びだった。

自ら選んだ道は「遠回り」

 計り知れない悲しみを抱えた児童たちを保護者と支え、向き合ったのが大川小の先生たちだった。間借り先の小学校で、詩織さんら新5年生の担任となったのは、大川小で勤務経験がある男性教諭(53)だった。異動の打診は始業式の2週間ほど前。本人は「この状況で何も力になれない」と重圧を感じていた。それでも児童の前では不安は見せなかった。児童たちを守ることを第一に、彼らが苦悩を抱え続けて生きていく5年後、10年後を見据え、今できることを必死に考えた。他の教員たちも同じような思いだった。

転居先の公園で妹と遊ぶ武山詩織さん(左)=宮城県登米市で2014年6月21日、佐々木順一撮影
転居先の公園で妹と遊ぶ武山詩織さん(左)=宮城県登米市で2014年6月21日、佐々木順一撮影

 震災で地域の関係性も傷ついた。大人たちが互いに気遣うあまり、以前にはない緊張や距離感が生まれていることを、児童らも敏感に感じ取っていた。せめて学校では心を解き放てるようにと、教員たちは「つらくなることは無理して話さなくていい。話して気持ちが楽になることがあれば話してもいいんだよ」と伝え、児童たちは少しずつ亡くなった友達や先生を語り始めるようになった。

 男性教諭は全校児童たちに「同じ経験をした者同士にしか共有できないことがある、大事な存在なんだぞ」と呼び掛けた。児童が亡き友達宛てに書いた手紙を遺族に届けたこともある。「目の前の子が子どもらしさを取り戻すためには、地域が前に進まないといけないと思っていた。でもあの時のやり方が正しかったのか、わからない」と今も自問する。

 詩織さんは男性教諭を「ただ優しく見守るのではなく、普通に厳しくしてくれた」と感謝する。詩織さんは今も、チラシの裏につづったあの手紙を、書いたことさえ思い出せない。その直後に通った学校で「学年を超えてみんな仲良く過ごした」記憶だけはよく覚えている。

 震災から5年が過ぎた16年4月、詩織さんは石巻市の高校に入学した。再び大川に近い場所に通い、心開ける親友にも出会った。古内海希(ふるうちみき)さん(20)。クラスメートになった1年生の時に親しくなり、2年生で別のクラスになってからも一緒に昼食の弁当を食べた。帰り道は反対方向だったが、バイト先へと急ぐ詩織さんとの時間を作るため、古内さんが自宅とは逆方面の電車に乗り、コイバナ(恋愛話)や学校の話題に花を咲かせた。古内さんは「自分は元気な詩織しか知らないですが、昔を知る友達からは『高校になって明るくなった』って聞きました」と語る。悩みも分かち合ったが震災直後のことはほとんど口にせず、古内さんも聞かなかった。その頃、詩織さんは「最近は前みたく震災を思い出さなくなった」と私に話していた。大川のことを忘れたわけではない。「大川の自分とそれ以降の自分が2人いる感じ」という。

 詩織さんは高校卒業後、車の免許を取って運転できるようになってまもなく、大川小の被災校舎を初めて1人で訪ねた。それからは、石巻市内の大学の講義後などにふらりと寄って、静かな時間を過ごした。大津波の爪痕が痛々しい校舎だが、詩織さんの目にはいつも、みんなと遊んだきれいなままの風景が浮かぶ。休み時間は校庭に走り出して一輪車の争奪戦をしたり、教室で友達同士、女の子の絵を描いたり。お楽しみ会で椅子取りゲームをした後、自分たちで作ったカップケーキの味。何気ない記憶がよぎる。

津波の傷痕が残る旧大川小。卒業生の武山詩織さんは「心の中では、みんなと遊んでいたきれいな学校のまま」と話す=宮城県石巻市で2月11日、和田大典撮影
津波の傷痕が残る旧大川小。卒業生の武山詩織さんは「心の中では、みんなと遊んでいたきれいな学校のまま」と話す=宮城県石巻市で2月11日、和田大典撮影

 20年12月の雨の日の午後。学校に行くという詩織さんと一緒に足を運んだ。周辺は震災遺構として保存するための整備工事が進み、震災前とも直後とも違う景色に生まれ変わろうとしていた。「一緒に食べませんか」と手渡してくれたクッキーを祭壇に置き、手を合わせた。1分近く目をつむり、袋からクッキーを出して口にした。甘さが広がり、寒さでこわ張ったほおが緩んだ。いつもそうしてみんなと食べるのだという。

 心の中でどんな対話をしたのか尋ねた。「学校のこととかいろいろ……」と話した後、少し沈黙し、言葉にすべきかためらったが、工事の音にかき消されないよう声を強めていった。「みんなの所に行きたいのもあるんです。親には『生かされた命だから』って言われるから口にしないけど、今も時々思うことがあって」。空を見上げた詩織さんに悲壮感はなかった。旧校舎に着く直前、雨上がりの空に虹がかかっていた。「毎回、ここに来ていいか迷う。でもこのタイミングで虹なんて。今日は来てよかったです」と笑った。

 今年2月、詩織さんは男性教諭に近況をメールした。「保育士を目指して大学で勉強していましたが、少し遠回りしようと思います。コロナの影響もあり、この1年、思うように勉強できず、経済面だけが苦しくなっていました」。実技や対面の講義もなくなり、このまま卒業しても自信を持って園児らに向き合えるか不安もあった。バイトの掛け持ちは奨学金返済のためもある。「両親に相談したら助けてくれただろうけど、違うなと思って。自分でこんな大きな決断をするのは初めて」。メールの最後に「春から障害者支援施設に就職し、余裕が生まれたら復学の道を考えています」とつづった。

 詩織さんが以前、こんな話をしてくれた。「みんなは4年生のままなのに、自分だけ年取って、いつか会えた時に自分だけおばあちゃんなんて嫌だ」と中学生の頃、母に話すと、「死んだ後の世界は楽しかった時の姿に戻るんだよ」と言われ、少しほっとした――。「戻るのは小6かも、20歳かもしれない。でも、それならいいかって」。いつしか中学、高校の友と大川小の友達が一緒に遊ぶ夢も見るようになったという。

 この春から、自分で選んだ「遠回り」の道を行く。まだ空の向こうにいる大川小の友達には伝えていない。「仕事にも慣れてきたら『今、私はこれぐらいのところにいるよ』って伝えたい」。今歩く道の先に、みんなが笑って待っている。出会える「いつか」まで、「あの日」の続きを生きていく。【百武信幸】

【東日本大震災】

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