- ツイート
- みんなのツイートを見る
- シェア
- ブックマーク
- 保存
- メール
- リンク
- 印刷

原発事故で流転の日々
社会人野球のスバルで投手を務める手塚周さん(24)は当時、福島県浪江町の浪江東中2年生。開業医の父徹さん(57)の第3子、次男として育ち、福島浜通り(沿岸部)の伝統校・磐城高に進んであわよくば甲子園へと夢見る野球少年だった。そして震災はやってきた。
自宅は海岸から離れており、津波の被害はなく倒壊も免れたが、それを上回る恐ろしい事態が追い打ちをかけた。町から最短で4キロに位置する福島第1原発の事故である。震災翌日の3月12日に避難勧告が出され、手塚家もしばし流転・離散の日々に入る。郡山市などで1週間過ごした後、「医療に携わる者として地元を離れるわけにはいかない」と父母は県内に残り、兄姉と3人で名古屋市の親類宅へ避難した。
徹さんが福島市内に落ち着き先を定め、新学期を福島三中で迎えた。「全く新しいクラスで周りの反応を確かめようとしていました。だって(放射線は)目に見えないから」。原発事故の避難者であることを、14歳は意識していた。
この記事は有料記事です。
残り863文字(全文1293文字)