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東日本大震災と群馬

東日本大震災がもたらした爪痕は深く残っています。群馬にゆかりのある人々を通じ、この10年の歩みをたどります。

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3・11から10年/3 社会人野球・スバル投手 手塚周さん(24) いまも戻れぬ故郷 /群馬

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「浪江で育ったピッチャーが頑張っているといわれるよう努力する」と話すスバル・手塚周投手=群馬県太田市運動公園野球場で2020年10月4日、高橋努撮影
「浪江で育ったピッチャーが頑張っているといわれるよう努力する」と話すスバル・手塚周投手=群馬県太田市運動公園野球場で2020年10月4日、高橋努撮影

原発事故で流転の日々

 社会人野球のスバルで投手を務める手塚周さん(24)は当時、福島県浪江町の浪江東中2年生。開業医の父徹さん(57)の第3子、次男として育ち、福島浜通り(沿岸部)の伝統校・磐城高に進んであわよくば甲子園へと夢見る野球少年だった。そして震災はやってきた。

 自宅は海岸から離れており、津波の被害はなく倒壊も免れたが、それを上回る恐ろしい事態が追い打ちをかけた。町から最短で4キロに位置する福島第1原発の事故である。震災翌日の3月12日に避難勧告が出され、手塚家もしばし流転・離散の日々に入る。郡山市などで1週間過ごした後、「医療に携わる者として地元を離れるわけにはいかない」と父母は県内に残り、兄姉と3人で名古屋市の親類宅へ避難した。

 徹さんが福島市内に落ち着き先を定め、新学期を福島三中で迎えた。「全く新しいクラスで周りの反応を確かめようとしていました。だって(放射線は)目に見えないから」。原発事故の避難者であることを、14歳は意識していた。

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