「命かけます。信じて」震災半年後、科捜研職員はなぜ死んだのか

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土屋昌弘さんの公務災害認定を求めて宮城県警が開示した資料などを見つめる妻千寿子さん=仙台市で2020年12月26日、関谷俊介撮影
土屋昌弘さんの公務災害認定を求めて宮城県警が開示した資料などを見つめる妻千寿子さん=仙台市で2020年12月26日、関谷俊介撮影

 東日本大震災の半年後、山梨県内で宮城県警科学捜査研究所職員が遺体で見つかった。津波で亡くなった遺体のDNA鑑定作業で休みなく働いた土屋昌弘さん(当時46歳)。自殺とされ、10代だった2人の息子は今もひきこもる。「こんな形で震災が降りかかってくるなんて想像もしなかった。なぜ、夫は死ななければならなかったのでしょうか」。妻千寿子さん(57)は超過勤務と死の関連を否定する県警に情報開示請求し、4年がかりで公務災害が認められた。取材を進めると死の背景に県警内部のあるトラブルが見えてきた。【関谷俊介】

身元不明遺体の確認で働き通し

 「震災前の2月、夫は長男を大学受験のために東京に連れて行ってくれました。次男は中学生になっても夫に靴下をはかせてもらうこともあるくらいまだまだ甘えたい盛りでした」。昌弘さんは仙台市で妻子と暮らし、夫として父として家族から慕われていた。

 東北大大学院を卒業し、民間企業の研究職を経て、1995年に宮城県警に採用された。そして、科捜研法医係で司法解剖やDNA鑑定に従事する。

 2011年3月11日の地震で科捜研のDNA鑑定機器は破損した。だが、次々と身元不明の遺体が見つかる中、遺族のもとに早く引き渡す必要があった。他県の科捜研にも鑑定を依頼し、試料などを送ることになった。

 作業は数人の職員が担当し、統括したのが昌弘さんだった。遺体の歯、爪、骨、使用していた歯ブラシ、カミソリなどを仕分けして梱包(こんぽう)、発送し、検査結果を受理する業務に追われた。その数、1万点以上。現場からは布団など何もかも山のように送られてきて多忙を極めた。誤りは許されない神経を使う作業だった。

 千寿子さんによると、昌弘さんは対応に追われ、震災後しばらく家には戻ってこなかった。自宅から通えるようになっても午前6時半に出て午後10時すぎに帰宅する生活で、土日祝日関係なく働き通しだった。

失踪前「陥れられ」とメール送信

 震災から半年後の9月4日朝、昌弘さんは姿を消す。午前8時ごろに目を覚ました千寿子さんは外出する様子を見ておらず、家の中には携帯電話や財布、鍵が残されたままだった。昌弘さんの静岡県の実家に電話しても手がかりはつかめず、千寿子さんはその日のうちに地元の仙台南署に行方不明者届を出した。

 科捜研の所長から千寿子さんの勤務先に電話があったのは1カ月後の10月3日だった。「残念なお知らせですが、…

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