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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/10 実を結んだ朝鮮半島の「行商体験」=広岩近広

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大阪商業学校に在学当時の竹中錬一 拡大
大阪商業学校に在学当時の竹中錬一

 三井銀行小野浜倉庫(現在の神戸市中央区)の建設予定地は、南側に海が広がっていた。北側には外国人墓地や外国人クラブが並び、異国情緒にあふれた一画だった。小野浜倉庫の建設に際して、総括責任者の竹中錬一(後の14代藤右衛門)は不退転の決意で臨んだ。

 1899(明治32)年2月16日、錬一は外国人墓地を見下ろす高台の民家を借りて、「竹中藤五郎神戸支店」の看板を掲げた。「第十四世竹中藤右衛門叙事伝」(竹中工務店)から引きたい。

 <支店とは言うものの、ここで業務を始められた当初はただの2、3人がこれを事務所兼住居としていたにすぎない。(略)施工の上ではまだ専門の熟練工に乏しい時代であったから、煉瓦(れんが)積みにおいてすら、名古屋の三井製糸場で経験のあった職人を呼び寄せねばならなかった。(略)従来縁故のなかった土地へ急に出てきたので労力でも資材でも多くの困難が伴ったことを示すものである。(略)荒波にもまれながら精進の道を進むしかなかった。小野浜倉庫の工事は、この意味での試練作品第1号として記念されるべきものである>

 神戸支店は新技術の吸収と優れた熟練工の養成を急いだが、錬一は着実に成果を上げた。煉瓦造り瓦葺(ぶ)き平屋建て倉庫の24棟が壮大な形を成すにつれ、神戸に竹中ありと高い評価を得る。

 <多くの困難があったが、父祖伝来の正道、信義、堅実という三本の柱に支えられて、人材も集まり、苦楽を共にしようとする下請業者にも恵まれ、これが又、世の信用を得る結果ともなった>(社史)

竹中錬一が「商業実習」先の朝鮮半島から実家に送り届けた「朝鮮旅行通信」 拡大
竹中錬一が「商業実習」先の朝鮮半島から実家に送り届けた「朝鮮旅行通信」

 神戸支店の最初の記念作品となる仕事を成し遂げた錬一を語るうえで、欠かせないのが「行商体験」だろう。錬一は95年に名古屋から大阪に出て、私立大阪商業学校(現在の私立大商学園高校)に進んだ。朝鮮貿易に熱心な校長で、自ら朝鮮語を教えた。日清戦争の直後ながら、生徒は「行商隊」を組んで朝鮮半島を歩いた。菊岡倶也著「建設業を興した人びと」(彰国社)は、次のように解説している。

 <学校の企画により商業の実習として韓国旅行をすることとなり、同級生と釜山、仁川を経て京城に入った。実際に商品を販売して各地を渡り歩くというのが学校の「商業実習」の趣旨であった。(略)当時、同地では暴徒の蜂起があったので、一時軍施設に収容されたり、韓国の行商人より販売成績がよかったため、商売の間に牛骨が飛んできて妨害されるというなかでの実習であったが、このときの体験は後年、建設業界に入った藤右衛門に大きなものを与えたようだ。(略)商業の学習や一年間に及ぶ行商体験は、他の建設業創業者に見られる「現場体験」に等しいものであったのだ>

 当の錬一は、「叙事伝」の「手記」に、こう書いている。

 <この一年間の朝鮮旅行の間、実地見習のため商店に寄寓(きぐう)し、商品の仕入、販売等を覚え、雇人の心情の機微、客の応対等全く未知の境地に修業せる次第にして、これが将来の私の人間形成に役立っておることを覚ゆるものであります>

 錬一にとって、若き日に異国で体験した一年は、後に竹中を率いる存在感あふれる実力経営者の源泉であった。

 (敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。人名表記は常用漢字とした。次回は3月20日に掲載予定)

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