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東日本大震災

2011年3月11日に発生した東日本大震災。復興の様子や課題、人々の移ろいを取り上げます。

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原発避難者、「自主」も「強制」も続く苦しみ 今も3万6000人

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原発事故で福島県浪江町津島地区の自宅を追われ、福島市内に逃れた今野千代さん。この日も津島時代の友人宅を訪ねた。それが楽しみという=福島市で2021年3月4日午後5時16分、竹内良和撮影
原発事故で福島県浪江町津島地区の自宅を追われ、福島市内に逃れた今野千代さん。この日も津島時代の友人宅を訪ねた。それが楽しみという=福島市で2021年3月4日午後5時16分、竹内良和撮影

 東京電力福島第1原発事故から10年となる今も、福島県の避難者は約3万6000人に上る。避難が長期化する中で、避難指示区域内からの「強制避難者」は偏見や孤立感に悩まされ、特に住宅の無償提供など公的支援が細る「自主避難者」は苦境にある。

美しい星空や絆は賠償金でも取り戻せない

 茨城県に避難していた山田正昭さん(79)は昨年、福島県に戻り南相馬市原町区に居を移した。事故時に住んでいた同県浪江町中心部の避難指示は4年前に解除されたが、インフラは不十分で傷んだ自宅も既に解体した。それでも古里への思いは断ち切れず「浪江の近くに」と県内に戻ってきた。

 事故直後、一家6人で茨城に避難したが、孫は小学校で「放射能が来た」と言われるいじめに遭った。県外避難したままの親戚にはストレスや酒の飲み過ぎから病気になった人もいる。

 福島に戻っても、古里の暮らしとは異なる。山田さんは「浪江ではちょっと歩けば『お茶飲んでけ』って言われたけど、そういうのはない」と漏らした。

 「帰還困難区域」に指定されている浪江町津島地区に住んでいた今野千代さん(68)は事故後、福島市に2世帯住宅を建て娘夫婦と暮らす。「津島出身とは言いにくい」といい、地域の人たちと深い付き合いができずにいる。

 東電の賠償金は原発からの距離などに応じ、有無や額が異なり、原発周辺の住民が「賠償金をもらっているだろう」と妬まれるケースも珍しくない。「家を建てても避難民という気持ちが消えない」。津島の美しい星空や家族同然の地域の絆は、賠償金でも取り戻せない。同じ津島の避難者宅を訪ねるのが楽しみだが、10年を経て連絡がとれなくなってきたという。【高田奈実、竹内良和】

自主避難生活で乱れた家族の和

 賠償や公的支援がほとんどない自主避難者には、経済的な負担感が増している。寺島紀夫さん(82)は事故時に南相馬市原町区に住んでいたが、一時、屋内退避指示が出たことなどで放射線の影響が不安になって避難した。福島・会津や東京など10カ所を転々とした末、2011年秋ごろから静岡県伊東市のマンションで暮らす。

 廃炉になるとはいえ「原発は信用できない」と福島に帰るつもりはなく、固定資産税がかかる南相馬の自宅跡地は妹に譲った。一方、県からの住宅支援が17年に打ち切られたため、伊東市内のマンションを出て家賃の安い市営住宅に移った。南相馬では農業も営んでいたが、今はやることもなく「前みたいに疲れることがない」と不眠に悩まされている。

 第1原発から約60キロ離れた福島県大玉村に住んでいた鹿目(かのめ)久美さん(53)は4歳だった長女の美桜(みお)さん(14)への放射線の影響を不安に思い、11年7月から相模原市の実家に自主避難している。仕事のために福島市に残った夫との二重生活となり、家族の和が乱れているという。

 事故後、美桜さんが幼稚園で外遊びができなくなるなど不自由さを感じて相模原に母子で移った。この自主避難に納得していなかった夫との溝は深まり、避難後の仕送りの相談もしにくくなった。

 今は契約社員として事務の仕事をしているが、高校受験を控える美桜さん…

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