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関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/11 心技両面から棟梁精神を伝授=広岩近広

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神戸に進出した頃の竹中錬一 拡大
神戸に進出した頃の竹中錬一

 竹中家が個人経営だった明治時代にあって、竹中錬一は神戸支店を総括した。三井銀行小野浜倉庫(現在の神戸市中央区)の完工(1900年)により厚い信用を得ると、受注先は関西に限らず広島や鹿児島にも及んだ。後に14代藤右衛門を継ぐ錬一について、あらためて当時を振り返りたい。

 <父の急逝によって神戸に進出したことは、その一生の大きな転機であった。(略)迷うことなくこの道一筋を進む決心がついたのは三井倉庫が完成した頃であったであろう。ひたむきな誠実さが士魂商才に裏付けされて、信用を得るに従い、この道への愛着となった。(略)当初から利益などは眼中になかったであろう。ただ父祖以来の恩顧に応えるためと、新天地を如何(いか)にして切り開くかに懸命だったにちがいない。それでも精算の結果としては漸(ようや)く赤字を出さないで済んだとメモされている。ある程度の安堵(あんど)と自信とで、新しい覚悟ができたようである>(「第十四世竹中藤右衛門叙事伝」竹中工務店)

 このとき錬一が請け負った仕事は、商業施設や金融機関の建築が中心で、他の建設業者に比べて官公庁の受注は見当たらない。名古屋鎮台の兵営工事で大損害を受け、強引な発注者の陸軍を訴えたものの敗訴した経緯が、その最たる理由といえた。前掲の「叙事伝」から、錬一の「手記」を引きたい。

 <大審院(現在の最高裁判所)まで行きましたが遂に敗訴という終末になりました。これがため役所ほど恐ろしいものはないという印象を強く受けまして、鎮台の方を向いては小便もしないという子供心にも反感を持ったのであります。これが私が官庁の仕事を毛嫌いした所以(ゆえん)であります>

仕事場のみで使用すべきだとして、道中での着用を禁じた法被 拡大
仕事場のみで使用すべきだとして、道中での着用を禁じた法被

 ところで、江戸時代になると白壁の蔵に見られるように、防火上から土蔵造りが始まった。明治の後半になると、当時の行名で浪速銀行の鹿児島支店や堺支店、鴻池銀行の神戸支店や京都支店などが、竹中によって土蔵造りで完工している。外観は日本風ながら内部は洋風だった。洋風建築に土蔵造りを応用したのが、竹中の特色である。

 竹中らしいエピソードも残っている。たとえば浪速銀行堺支店の工事主任、寺尾利三郎は早朝から現場に出ると、作業場の一隅に設けた狭い囲いの部屋に入った。衣服を改め、正座をして心を静めると、抹茶の手前で心を清めた。このあと、おもむろに鉋(かんな)を取り出して、一心に研いだ。この作法が毎日繰り返されるのを見た銀行関係者は、これでこそ心のこもった立派な仕事ができるのだと、いたく感心したという。

 また竹中では、法被の取り扱いも厳格だった。一般に当時の大工衆は、<法被姿の肩に道具箱をかつぎ、威勢よく大道を闊歩(かっぽ)するのがイキともイナセとも見られていた>(「第十四世竹中藤右衛門叙事伝」)。

 しかし竹中では、仕事場へ行き来する道中の法被着用を厳禁した。法被は仕事場のみの使用によって、その神聖さが保たれるとの見解だった。みだりに人前で法被姿をさらして誇り顔をするのは、まだまだ自分の仕事の本当の尊さのわからない未熟者だと説いた。

 錬一は先頭に立って、父祖伝来の棟梁(とうりょう)精神を心技両面から伝授したのである。

 (敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。人名表記は常用漢字とした。次回は3月27日に掲載予定)

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