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尊王攘夷(じょうい)の先駆けになろうと企んだ高崎城の乗っ取りと横浜外国人居留地の焼き打ちを直前に断念した渋沢栄一。血洗島村を出奔し、京都へ向かった。
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中止はしたが、倒幕の企図が漏れて幕府に伝われば身に危険が及ぶ。栄一は文久3(1863)年11月8日、2歳上のいとこ渋沢喜作と一緒に、23年間生まれ育った血洗島村を離れた。自伝「雨夜譚(あまよがたり)」で栄一は「これが取りも直さず農民から浪士とか書生とかいう身分に変じた」転換点だったと振り返っている。
10歳上の尾高惇忠は既に下手計村の名主を務める尾高家の戸主となっていたため、京都から帰郷した弟の長七郎とともに村に残り、後始末に当たった。
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