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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/12 商号に刻んだ「工務」と「店」=広岩近広

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京都出張所の開設につながった鐘淵紡績京都工場の施工 拡大
京都出張所の開設につながった鐘淵紡績京都工場の施工

 神戸に進出した竹中は1906(明治39)年、大阪に古くからあった倉庫の増築を受注する。このときの棟札に、<棟梁(とうりょう)><大匠(現場責任者)><煉瓦(れんが)工><石工><鳶(とび)工><手伝>らの氏名が見られた。神戸支店を総括した竹中錬一は、神戸から大阪そして京都へと事業を広げる。住友銀行京都支店、鴻池銀行京都支店、鐘淵紡績京都工場と相次いだ。鐘淵紡績との縁は兵庫工場の営業部や娯楽場の工事を仕上げた1905年からで、京都工場は1907年に受注している。

 <これらの工事は神戸からの出張工事であったが、鐘淵紡績京都工場が完成に近づくと、京都に出張所を開設して、京都地区の工事を統轄せしめることとした。即(すなわ)ち、堀川押小路に出張所を開き、鐘淵紡績京都工場の残務を担当していた長谷川直次郎を主任とした>(社史)

会社組織に改組した当時、実兄の13代藤五郎(左)と弟の14代藤右衛門 拡大
会社組織に改組した当時、実兄の13代藤五郎(左)と弟の14代藤右衛門

 1908年6月、11代藤右衛門が76歳で生涯の幕を閉じた。このとき13代藤五郎(錬一の実兄)は36歳だったが、その長男は早世していた。女児も3歳と4歳のため、錬一が祖父を継ぎ、14代藤右衛門を襲名する。

 14代藤右衛門は翌年の5月、これまでの個人営業から合名会社へと組織の変更を決めた。創業から約300年、14代藤右衛門は法人企業の時代を見通していた。事業態様も日本建築から洋風建築に移り変わっており、本店を名古屋から神戸に移設し、名古屋は支店に置き換える。

 会社を設立するには、商号となる名称を決めなければならない。最初にあがった「竹中建築事務所」について藤右衛門は、設計が主業務と受け取られたら心外だと不採用にした。竹中の始祖らは宮大工の棟梁として、設計から施工さらに意匠も手がけている。宮大工は「板図」と呼ばれる「柱割図」を描いていた。だから藤右衛門は設計と施工は一体であり、これこそが竹中の在り方だと確たる信念を貫いた。

 当時の業界は「組」で呼ぶのが一般的だったが、最後は藤右衛門の「鶴の一声」で、「竹中工務店」に決まる。藤右衛門の「私の思い出」(全国建設業協会)から引きたい。

 <この商号の選定はいろいろ考えた結果によるものであるが、“組”という一般の呼称は私の家の生い立ちから見てどうもふさわしくないし、当時、土建業といわれることもいさぎよしとしないという気持ちもあり、“工務所”というと設計事務所のような印象を与える。種々検討の結果、請負業と工務所との中間を行く気持ちで、“工務店”に落ち着いたのであった>

 藤右衛門は、設計施工の一貫方式が建設業本来の責務だと考え、父祖伝来のしきたりを「工務」の二文字に表した。また顧客への奉仕を第一義とする姿勢から、「店」を選んだ。藤右衛門は単に建築物をつくるだけではなく、技術に生き、技術を通じて顧客の要望に応える、そうした実践を通じて、社会への貢献を果たしていきたいと首尾一貫していた。

 織田信長の普請奉行を始祖に持つ14代藤右衛門は、重代の棟梁精神に加えて、顧客を大切にする姿勢を「工務店」の三文字に凝縮したのである。

 かくして「合名会社竹中工務店」は設立された。

 (敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。人名表記は常用漢字とした。次回は4月3日に掲載予定)

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