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加藤浩子「名画が語る名作オペラ」

音楽物書きの加藤浩子さんが、オペラと絵画という二つの芸術を1本の線で結び、風刺や時代背景を映し出す作品の魅力に迫ります。

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加藤浩子「名画が語る名作オペラ」

レンブラントとバッハが描く「人間」ペテロの苦悩〜「ペテロの否認」

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レンブラント・ファン・レイン「ペテロの否認」
レンブラント・ファン・レイン「ペテロの否認」

 「名画とオペラ」というタイトルの連載だが、今回はこの時期ならではの復活祭(移動祝祭日、今年は4月4日)にちなんで、「イエスの受難」にまつわるテーマを取り上げることをお許しいただきたい。「イエスの受難」は、劇的という点でどんなオペラにも劣らないが、受難がなされたのは、イエスが復活したとされる復活祭の日曜日の3日前の金曜日のことだった。今その日は「聖金曜日」と呼ばれる。

 ヨハン・セバスティアン・バッハの二つの受難曲「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」は、聖金曜日の礼拝で演奏されるために書かれた音楽である。テクストは聖書の受難の記事に基づいており、「マタイ」「ヨハネ」というタイトルは、それぞれ「マタイによる福音書」「ヨハネによる福音書」をベースにしていることを示す。信徒は音楽とともにイエスの受難を追体験し、主をしのぶ。

 バッハの「マタイ」と「ヨハネ」は、福音書の内容に合わせて音楽の性格もかなり異なるが、両者に共通する劇的な場面が「ペテロの否認」である。イエスの一番弟子のペテロが、逮捕されたイエスを「知っているだろう」と群衆たちに詰め寄られ、「知らない」と3度否認する。その時鶏が鳴く。イエスは「鶏が鳴く前に、お前は私を知らないと3度言うだろう」と予言した。ペテロはそれを思い出して号泣する。「マタイによる福音書」にはある場面だが、「ヨハネ」にはない。だがバッハは「ヨハネ受難曲」にもこの一節を挿入して、ペテロが悔いるアリア「ああ、我が心よ」を書き足した。受難曲に劇的な演出を求めた結果だった。「マタイ受難曲」の同じ場面には、人間ペテロの弱さを歌うアリア「憐れみたまえ」が置かれている。名曲中の名曲である。

 「ペテロの否認」は、画家たちにとっても魅力的なテーマだった。17世紀オランダの巨匠レンブラントは、「ペテロの否認」を2度描いた。晩年に描かれた2枚目の「ペテロの否認」には、裁判にかけられ、磔刑(たっけい)を宣言されて刑場にひかれていくイエスの姿が画面の奥にかすかに描かれている。ペテロが尋問されている時、イエスは捕縛されたばかりだったから、この光景はフィクションだ。が、レンブラントはバッハ同様、劇的効果を高めるために、彼の否認の結果起こったことを同じ画面に描き込んだのである。

 ペテロは人間だった。弱かった。だからこそ、多くの人々がペテロに共感する。だがこの一件で改悛(かいしゅん)したペテロはもっとも献身的な布教者となり、イエス同様磔(はりつけ)になって殉教するが、師と同じでは畏れ多いと自ら望んで逆さ磔刑になった。後に、彼の墓所とされた場所に、カトリックの総本山となる聖ピエトロ(聖ペテロ)寺院が建てられる。ペテロはイエスに与えられた「石=ペテロ」と言う名前の通り、教会の礎となったのである。

筆者プロフィル

 加藤 浩子(かとう・ひろこ) 音楽物書き。慶応義塾大学、同大学院修了(音楽学専攻)。大学院在学中、オーストリア政府給費留学生としてインスブルック大学留学。バッハとイタリア・オペラをテーマに、執筆、講演、オペラ&音楽ツアーの企画同行など多彩に活動。著書に「今夜はオペラ!」「ようこそオペラ!」「オペラ 愛の名曲20選+4」「名曲を生みだした女性たち クラシック 愛の名曲20選」「モーツァルト 愛の名曲20選」(春秋社)、「バッハへの旅」「黄金の翼=ジュゼッペ・ヴェルディ」(東京書籍)、「人生の午後に生きがいを奏でる家」「さわりで覚えるオペラの名曲20選」「さわりで覚えるバッハの名曲25選」(中経出版)、「ヴェルディ」「オペラでわかるヨーロッパ史」「音楽で楽しむ名画」「バッハ」(平凡社新書)。最新刊は「オペラで楽しむヨーロッパ史」(平凡社新書)。

公式HP

http://www.casa-hiroko.com/

ブログ「加藤浩子のLa bella vita(美しき人生)」

https://plaza.rakuten.co.jp/casahiroko/

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