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村上春樹をめぐるメモらんだむ

表紙の変遷で見る中国での読まれ方=完全版

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孫軍悦「現代中国と日本文学の翻訳」
孫軍悦「現代中国と日本文学の翻訳」

 村上文学において中国が重要な意味を持つこと、また、村上作品が中国語圏で多くの読者を得ていることはよく知られている。当コラムでも自伝的エッセー「猫を棄(す)てる」(2020年)などに触れて、村上春樹さんと中国の関係を書いてきた。では、中国の読者は彼の作品をどのように読んでいるのだろうか。

 これに関しては、筆者も何人かの熱心な中国人の村上文学研究者から直接話を聞いたことがあるし、文章もしばしば目にしてきた。もっとも、文章のほうは、あくまで筆者が読解可能な日本語で書かれたもの、日本語に訳されたものに限られるが、近年は村上作品をテーマに論文を書く人が学生を含め増えていると聞くから、中国語の文献は膨大な数に上るに違いない。面識を得た人たちの印象は、ひと言でいうと皆、多かれ少なかれ「村上ファン」である。研究対象に選ぶくらいだから、これは当然かもしれない。

 「中国における村上文学」に関して、中国文学者、藤井省三さんの「中国語圏文学史」(11年)で基本的な事実を押さえておくと、最初に翻訳されたのは1985年、台湾の翻訳家、頼明珠さんによる短編小説の紹介にさかのぼる。「これは村上文学の世界最初の翻訳」でもあった。続いて、日本でベストセラーになった長編「ノルウェイの森」(87年)の翻訳が、台湾と香港、中国で、海賊版も含めて計6種類も刊行され、村上ブームが起こる。

 その後、90年代に入って著作権法が整備されてからは、台湾では頼さん、中国では大学教授の林少華さんという「二大翻訳家による“競訳”体制が確立した」。これは台湾では漢字の繁体字、中国では簡体字が常用され、中国語版権は「別個に与えられるのが一般的」なためだという。

 さらに、藤井さんが12年に本紙に寄稿したエッセーによれば、長編「1Q84」(09~10年)の簡体字版の版権を従来と異なる版元が取得したことから、訳者も林さんから日本文学者の施小煒さんに変わった。頼さんの「潔癖なまでの直訳体」に対し、林さんは「大胆な意訳による華麗な文体」で知られたが、施さんの訳も「頼訳ほどには直訳にこだわらない独自の翻訳で、新しい村上ファンを開拓しつつある」ということだった(毎日新聞12年8月23日夕刊)。

歴史の推移で意味の読み替えも

 今回、この話題を取り上げたのは、中国人の比較文学研究者、孫軍悦さんが出版した「現代中国と日本文学の翻訳」(青弓社)を読んだからである。10年に東大に提出された博士論文をもとにした重厚な著作で、「テクストと社会の相互形成史」の副題を持つ。3部構成の本の第3部が「ノルウェイの森」の中国語翻訳をめぐる分析に割かれている。

 これが面白いのは、いかにも村上ファンという感じでなく、非常に客観的に、中国における「村上春樹現象」を論じていること、それも、49年の中華人民共和国建国以降の歴史を踏まえ、他の作品を含む日本文学の翻訳全体の流れの中に位置づけていることだ。

 例えば、井上靖の小説「天平の甍(いらか)」(57年、中国語訳は63年)を取り上げた第1部。それまで日中双方でほとんど知られていなかった同作の主人公、鑑真の物語が、日中国交正常化へ向けた両国間の「『二千年余』の友好的な文化交流の歴史を宣伝する格好の素材」となっていったプロセスが明らかにされている。ここでは小説のテキストの翻訳についての詳細な検討だけでなく、劇団・前進座による舞台に関しても、63年の初演(「鑑真円寂千二百年記念行事の一環」だった)から、国交回復後の74年の中国公演に至るまでの脚本・演出の変化を探っている。

 第2部では、改革・開放後の中国で人気…

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