連載

渋沢栄一を歩く

「日本資本主義の父」と呼ばれ渋沢栄一の生涯を、生まれ故郷・埼玉県深谷市を中心とした取材からたどります。

連載一覧

渋沢栄一を歩く

/12 一橋家に仕官 困難でも「順路に頼る」 /埼玉

  • ブックマーク
  • 保存
  • メール
  • 印刷
慶応3(1867)年3月ごろの徳川慶喜肖像写真=茨城県立歴史館所蔵、茨城県立歴史館提供
慶応3(1867)年3月ごろの徳川慶喜肖像写真=茨城県立歴史館所蔵、茨城県立歴史館提供

 幕政批判を記した手紙が幕吏の手中に落ち、窮地に立たされた渋沢栄一と喜作。翌日には、平岡円四郎に呼び出された。

     ◇

 のちに栄一は、口述自伝「雨夜譚(あまよがたり)」で経緯を詳細に振り返っている。

 平岡は、悪くは取り計らわぬから何事も包み隠さず話すよう促し、2人は事情を打ち明けた。これからどうするつもりかと尋ねる平岡に、栄一は「実は思案に尽きております」と率直に答えた。平岡を頼って京都に来たのは一橋家への仕官が目的ではなく、何か国家に尽くす機会を得て一命を懸けようと思ってのことだった。その機にも巡り合えず、死生を共にと約束した同志が江戸で捕縛され、今更郷里へ帰ることもできず、ほとんど進退窮まっている――。

 平岡は「この際、志を変じ節を屈して、一橋の家来になってはどうだ」と改めて勧めた。「平生の志が面白いから拙者は十分に心配してみよう」と栄一と喜作の見識を買い、「この一橋の君公は、いわゆる有為の君である」と話した。能力が高くいずれ将軍として将来を嘱望されている身であるから、現在の幕府の失政に義憤を持っていても、一橋は他の武家とは異なる立場であり「この前途有為の君公に仕えるのなら草履取りをしてもいささ…

この記事は有料記事です。

残り1660文字(全文2169文字)

あわせて読みたい

マイページでフォローする

この記事の特集・連載
すべて見る

ニュース特集