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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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竹中工務店/13 手がけた建築物は「作品」=広岩近広

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「作品主義」を掲げた14代竹中藤右衛門(左から2人目)は「作品」となる建築現場をよく視察した=東京都内で1963年 拡大
「作品主義」を掲げた14代竹中藤右衛門(左から2人目)は「作品」となる建築現場をよく視察した=東京都内で1963年

 神戸に本店(本社)を構えた竹中工務店が、合名会社に改組してから手掛けた建造物に日本建築はほとんど見られない。煉瓦(れんが)造りや鉄骨煉瓦造りが多く、かつての木造建築は洋風に移っている。時代の要請であり、近代建設業を目指す新生竹中の挑戦でもあった。

 14代竹中藤右衛門の「私の思い出」(全国建設業協会)は「洋風の錺(かざり)工事」に言及している。錺工事は板金工事の別称で、銅や鉄などの薄板を使って屋根や天井や水回りなどを施工した。<新しい建築を手がけると、一流の熟練工を使う必要が要請されるのであって>と述べ、さらに藤右衛門はこう続ける。<洋風の錺工事といえば、どうしても東京から山田信介という人にきてもらわないと仕事にならないのが一般であった>

 当時の洋風建築で、「錺工事」の重要さが察せられる。藤右衛門が「助っ人」に選んだ山田信介は東京職工学校(現東京工大)の第1期卒業生で、6人の技師や職工から選ばれたドイツ貸費生の一人だった。1886(明治19)年11月から3年間、山田はベルリンで飾工技術を学んだ。藤右衛門は<このドイツ留学の卓見には敬意を払わざるを得ない>と評価している。

 竹中工務店は1911年12月、東京は京橋区新富町に東京出張所を開いた。2年後には、築地に移転する。<仕事らしい仕事はなく、開店休業のような有様で、博覧会に際しての松坂屋の工事くらいであった>(社史)

神戸市の竹中大工道具館で2007年に開催された企画展「錺」のチラシ 拡大
神戸市の竹中大工道具館で2007年に開催された企画展「錺」のチラシ

 この頃、銀行の新築工事で入札指名を受けた。だが条件として、公正証書を差し入れたうえに、保証人2人を要求される。藤右衛門は<保証人を立ててまで仕事はしたくない>と拒んだ。結局は、東京出張所の窮状を考慮して、友人関係ということで旧知の店主らに依頼した。信頼と信用を信条とした藤右衛門は、保証人を必要とする「東京方式」に無念であったろう。

 藤右衛門が書式を修正したのが、出張所の口座を開くときに求められた「出張所主任の印鑑届」だった。社史は次のように記している。

 <銀行から交付された書式の一部に“該印鑑通りの調印ある小切手、手形、証書類に就いては何様の事ありとも総(すべ)て当社に於(お)いて引受可申候(ひきうけもうすべくそうろう)”とあるのを、手形、証書類の5文字を赤線で抹消したものである。この修正に対して銀行から質問があったが、当方では手形類は一切発行しないのだからということで漸(ようや)く諒解(りょうかい)されたという。その後に出張所主任交代の届のときも同様に抹消しただけでなく、約束手形、為替手形は一切振り出さないと加筆してある>

 社長の藤右衛門は、棟梁(とうりょう)の気骨にあふれていた。ゆえに藤右衛門らしい対応であった。「竹中藤右衛門―生誕一〇〇年」(竹中工務店)で述べている。<竹中工務店は、建築業ではなく建築職である。これを職人気質と申したいのである。(略)一つ一つの仕事が完全にできて、竹中工務店の仕事として恥ずかしくないものをつくること、最大になるよりも、最良のものをつくって、この世に残すということに邁進(まいしん)したい>

 竹中工務店では、手がけた建築物を「作品」と呼んでいる。14代藤右衛門の棟梁精神に裏打ちされた「作品主義」は、現在も竹中に息づいている。

 (敬称略。構成と引用は竹中工務店の社史により、写真は社史及び同店発行の出版物などによる。次回は4月10日に掲載予定)

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